「――ヒントと簡単に言うが、一桁の引き算並みの数式にヒントなど出しようがない」
「一桁の引き算?」
「ふたつあったリンゴのうち、ひとつを食べたら残りはいくつだ?」
「一個…」


いや、やっぱりどう転んでも中嶋さんは中嶋さんだ…


「つまり俺は、小1レベルの算数が出来ない馬鹿だと」
「そう自分を卑下するな。お前の場合、単に不慣れなだけだろう。公式さえ頭に入れればそれで済む話だ」
「はぁ…?」
「お前、本当にまだ何も気づかないのか?」


揶揄い混じりだった眼差しに、僅かに別の意味合いがじわりと滲んで、和希をやや追い詰める。


「これは、思った以上に厄介だな…」


かと思えば今度はどこか楽しげでもあり。


「あの…?」
「考えてもみろ、卒業する3年だけで何人いると思っている」
「えぇと」
「数えなくていい。その人数の中で、どうして俺のことだけを抜き出して考えたか」
「それは」


今回の一番の問題点なのだけれど。


「――俺の存在が、お前の中で別格ということだ。他人に相談を持ちかけるくらい、特定の相手のことばかり考えている」
「いえ、それは…」
「否定するのはお前の勝手だが、別格の存在が何を意味するのかくらいわかるだろう。いくらお前の頭でも」


中嶋さんは実に愉快そうに、そう断言した。他人の噂話でもしているかのように。
自信に満ちあふれた表情がまたよく似合う。


「それは…一応俺でも人並にそれくらいは。でもありえませんよ、そんなこと」
「言い切るだけの根拠があるわけだな」
「無論ですよ。自分の生徒に対し、歪んだ感情を抱くことなどありえませんから。そのくらいの分別はあります」


きっぱりと言い返すのにはそれだけの自負があり、責任があるからだったが、中嶋さんは笑い飛ばしこそしなかったものの、何故か和希の言に心底呆れているようだった。
こんな"やれやれ"って顔も以前はそんなに見かけなかった…そういえば――『そういえば』が多いな今日は。


「そこまですっとぼけたお前に、今更理事長面されても逆効果にしかならないな」
「それは…あまり否定出来ませんけど……」
「自覚があるならまだ救いはあるか」


中嶋さんが、とっくに空になっていたカップを和希の手から戻そうとして中腰になる。
最後の言葉と相まって、これで話を切り上げようとしているのだと認識し、


「あ、俺が洗いま――」


自分用のカップと共に、相手のカップを受け取ろうと自らも中腰になったが、中嶋さんは何やら考え込む素振りでやがて、すっと身を起こした。


「定義が崩れた時点で、お前の固定観念もないものになるんじゃないのか」
「え…?」


半端な姿勢から覗き込まれる。その眼は到って真剣で、不意に胸倉に掴みかかられたような気になった。


「卒業まであとひと月ない。その後、俺は単なるOBになるな」
「――」


単純に事実を述べられただけなのに、変だ。違う意味が含まれているかのようにも聞こえて…くる。


「どうだ?」
「ちょ…っ、――近づきすぎ、です…よ」


メタルフレームの眼鏡が、呆けている間にすぐ近くまで、息が届くほどの距離まで来ていた。


「あの…っ」


困惑をも愉しんで、おそらくそこから動かない気だろう。明確に納得のいく答えを得るまで。
理事長と生徒という概念がなくなれば、妨げになっている枷も消え、残った感情だけが露わになる…と、それが中嶋さんの主張か。
でも、それは本当に…?


「ちょ、ちょっと待ってください中嶋さん。俺が貴方に恋愛感情を抱いているとまだ決まったわけでは」
「…だったら今すぐ自覚しろ」
「無茶を言わな…」
「――俺としても、強硬手段に出ることは本意じゃない」


脅迫もどきの台詞…でもそれだって、そのままの意味にはちっとも聞こえてこない。


「中嶋さん…」
「なんだ」
「…は、その、まさかとは思いますが――」
「勿体ぶらずにはっきり言え」


問い返す声や眼差しが、さっきから態度に反して柔らかいことに気づいてしまうと、途端に意識して…しまいそうになる…
もしかして?って。
自己暗示かもしれない。だってそんなはずはないのだから。


「あの、もしかしてって思ったんですけどでも」
「もしかして――俺がお前を好きだとでも?」
「……っ」


直接聞かされる言葉は、想像以上に耳にくすぐったく、そしてどこか別の場所を、自分でも窺い知れない奥深いところをざらりと撫でた。


「…さぁな。お前と同じで、俺もそっち方面には疎いもので」
「――」


そんなわけがないと反論するのも馬鹿らしかった。この男の浮名を知らないわけじゃない。
歳を誤魔化して、いかがわしい店に出入りしているとか、そんな噂も耳にしている。
ただ、噂の域を出ない以上、表立った処分は考えなかった――


「今、何を考えた?」
「え…っ」


すでに全てを見透かした眼が、あえて問う。
逸らしたら負けだと思った。それでなくとも退路がない。眼の前の人を突き飛ばすか、後ろへ退くか。
どちらにしても中途半端な態勢のまま停止してしまった為、抜き差しならない状況に追い込まれているのは事実だ。


いつか綺麗だと思った中嶋さんの指が、すっと伸ばされて眼の前で停まった。
見せびらかすつもりでもないだろうに、そこから眼が離せなくなる。
やがてその手指は緩慢な動作で、和希の顎を摘み上げた。
たったそれだけで恥ずかしいほどうろたえ、今にも心臓が火を噴きそうだった。


「お前がのこのこと部屋にやってきて、俺のことが気になると言われたも同然の発言に、期待しない人間がいると思うのか?」
「そん…」


期待?と頭の中で書き付けて繰り返す。だってそれは、さっき誤魔化した言葉を裏付ける…


「理事長ともあろう者が、いつまでも空惚けたキャラを演っていられると思うな」


中嶋さんがまた少し、こちらに近づく。つられて後ろに退いた弾みで尻餅をついた。
なおも言い募る相手に気圧され、上体が傾むく。肘が床に触れた。次いで背中。
マズい、と思う間もなく身体は完全に寝転がって、予定調和とばかりそこに重量感が覆い被さってくる。


「――」


迫力に負け思わず息を飲んだせいで、くっと喉の奥が鳴った。


「……理事長を襲えば確実に退学だろうな。さすがのお前も決断する気になるか」
「中…っ!」
「言い訳するつもりはないが、別に処分を恐れてお前に手を出さなかったわけじゃない」


それが本気なのか、いつもの軽口なのか、確認する術はなかった。


「じゃあどうして――ですか?」
「…もし真剣に訊いているなら、お前はやはり大物だな」
「それはどう…いう…」
「――説明したところで、お前に理解できるとは思えない」
「そ…」


この頑なさは、和希の態度に由来するものなのかもしれないと、漠然と感じた。
この人だってまだ18歳なんだってことを、都合よく忘れてしまいそうになる。


「…俺には、無責任なことは言えない。この先のことも、中嶋さんが居なくなってみないと、どう感じるのかわからない。
だからそれまで、俺の気持ちを決め付けないでいてください。貴方の気持ちも――今は追求せずにおきます…から」
「急かすなと言うことか? 待った挙句、結果が伴わなかったとしても、お前のせいにしたりはしない。…だがな」
「…?」
「この状況をなかったことにされては、俺の立場がない」


そうは思わないか、と覗き込む眼が不埒に語る。


「…し、知りませんよそんなことまでっ」
「まさかお前に情けを乞う日が来ようとはな」
「………」


これは絶対に本気じゃない。でも何所か嬉しそうな、楽しそうな口元。中嶋さんの、口唇…


「じゃあ、……キ…ス、します、か…?」


奇妙な提案に、頭上の人は眼を細めて和希を見下ろした。


「言っておきますが、だけですか――んっ」


最後まで言わせもしない。性急に奪っておいて、そのくせ余裕たっぷりに貪ってくる辺りが憎らしい。
全くこれのどこが疎いんだか。口唇を縫い付けてやりたいくらいだったが、 どうしてそんな交渉をしてしまったのか、理由を考えると、完璧にこちらに分がなく。


でも、後悔は何故かなかった。





「――そういえば和希、中嶋さんにチョコあげなかったんだ?」
「え?」
「チョコ、バレンタインの」
「な、…っ」


啓太の専売特許のようなキラキラした無邪気な瞳に見つめられると、普段――仕事中ならなんてこともないポーカーフェイスが全く作れない。
啓太には先日、あの人の部屋へ行ったってバレてるわけだし、もちろん次の日にはきっちりと首尾を訊かれた―― どうもしなかったよって答えておいたけれど、案外鋭い啓太は、怪しい気配を嗅ぎつけたのか不審がっていた。
和希が実にわかり易いという点については、今は考えないでおく。


「和希から贈ったら、中嶋さん喜ぶと思うけど」


――いや、啓太…それはどうだろう。第一、甘いものなんて見向きもしないだろうし。


「その前に渡す理由がないだろ? 変に誤解されたら困るしさ」
「誤解も何も…」
「ん?」
「あ、なんでもないなんでもない!」


呑気な話題に上っている当の中嶋さんは、只今二次試験の真っ最中だったりする。
それが無事終われば、一週間後には卒業式。
学園内での、送る会だったり式の運営だったりのごたごたと、職分としての卒業式関連の作業と、否応無く現実を突きつけられるのに、未だ実感は湧かない。
返事は卒業後――などというあやふやな、約束とも言えないような言葉を、中嶋さんは本当のところどう思っていたのだろう。
大体、他人に執着するするような人物には到底見えない。和希でなくとも、おそらく相手に不自由などしない――


とは言え、中嶋さんの感情は今、和希の出すべき答えに影響を及ぼさない。
そもそも好きだから付き合ってくれと言われたわけでもなく、問題を持ち込んだのは和希の側であって…
でもそれなら、もし和希が現れなければ中嶋さんはどうするつもりだったのだろう?
別に処分を恐れてお前に手を出さなかったわけじゃない――なんて、あの発言は、我慢してたって意味…と受け取るべきなのか?
不慣れにも程がある。元々判りにくい人だとは言え、中嶋さんにあそこまで言わせておきながら、まだちっとも一歩も前に進めていないなんて。






卒業式当日、どうせ合否報告があるからすぐにまた来ることになる、なんて言って、中嶋さんはあっさりと学園を巣立っていった。
中嶋さんが居なくなることより、そっちのほうがずっと寂しく思えた。
三年間の学園生活。単なる通過点だと分かっているが、せめてほんの少しでも、感傷めいた気持ちを残して行って欲しかった。
これは理事長としての、偽らざる思い。


それから数日後の、前期試験の合格発表。結果を知らせてくれたのは、啓太からのメールだった。













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