中嶋さんが居なくなったら、とある日ふと考えて、途方に暮れた。
現実問題として、あとひと月足らずで卒業式。ただし、その現実味は全くない。
実際そうなって――眼の前から居なくなって――みないとわかりもしないことを、考えてしまう自分がまずわからない。
寂しいと思うのか、それともせいせいしたと思うのか、それとももっと他の感情が湧くのか。


「――え?3年生が卒業したらって、そんなの寂しいに決まってるよ。王様も中嶋さんも篠宮さんも岩井さんにも、いっぱいお世話になったしさ」


啓太は、要領を得ない和希の問いに、事も無げに答えを寄越した。


「そっか…そうだよな」
「そうだよ!まだピンと来ないけどさ、先輩たちが居ないのって」


啓太の横顔に、素直な寂しさを垣間見る。当たり前だろって、真っ直ぐな気持ち。


「…そうだな」
「でも…和希にとってはもっと複雑だよな」
「――?どうしてだ?」
「どうしてって…中嶋さんが卒業しちゃうんだから――…」


初めのうちこそ苦笑を浮かべていた啓太も、和希が本気できょとんとしたままなのを見て、困ったように首を傾げた。


「…和希?あのさ」
「うん?」
「うんって…3年生が居なくなったらどう思うって訊いたの和希だよ?」
「ああうん、そうだけど…」
「和希?」


さっきからどうもピンボケな親友に、どうしちゃったんだ――と同情の眼差しで啓太が呼びかける。
そうなんだ、確かにこの頃ちょっとおかしい。
もうじき卒業式だなって、中嶋さんが居なくなっちゃうなって考え始めたときから、どうにも焦点の合わない眼鏡を掛けている感じがする。


「――だからそれは、和希にとって中嶋さんが特別な存在だからだろ?」
「特別…」


何を今更って啓太が笑いかける。でも特別って?どういう意味だろう?


「えーっと啓太、その特別っていうのは、具体的にどの辺りの話か教えてくれるか?」


困らせたいわけじゃないのに、啓太は酷く哀しげに眉を顰める。哀れみ…のような。


「和希、ちょっと訊くけど俺が誰か分かる?」
「え?啓太じゃなかったら誰だよ」


苦笑してみるが啓太は真剣だった。


「ちゃんとわかってるよな――あのな?和希、中嶋さんと和希…俺の知ってる和希はすごく仲がいいんだよ。 だから、その和希なら、中嶋さんが卒業して寂しいって思うのは不思議じゃないと思うよ全然」
「………」


別に記憶喪失になったわけじゃないけど、啓太の言葉はいちいち新鮮だった。
中嶋さんとは学生会の手伝いで結構長く一緒に過ごしたし、よく話もした。
でも特別って?啓太と同じくらい?仲がいいって、それはどのくらい…?


「和希、ずっとそれ考えてて俺に訊きに来たんだ?」
「うん…どうなんだろ。それもよくわからな…」
「もやもやしてるんなら、いっそ本人に訊いたらいいと思うよ、直接さ」
「えっ?」


ほら!と啓太はいきなり和希の背中を叩いた。


「和希はさ、頭いいからつい考えすぎるんだと思う。だから」


だからって――と、そんな和希の困惑もお構いなしの啓太にぐいぐいと強引に外に押し出された。


「中嶋さんにメールしとくからなっ」
「え、何を…」


啓太、の呼びかけも虚しくドアは閉じられた。逃げずに行けってことだろうが、可愛い親友の行動は時々信じ難い。
若いってことなのか――だけど放り出されて、本当に、どうしたらいいのかわからない。
中嶋さんが居なくなったらそりゃあ学園は平和になるだろうが、きっと物足りない。
あれだけの強烈な個性を持った生徒はそういないだろうし。
王様とのツートップが揃って居なくなるのだから、影響は眼に見えている。


でも。


そこまでは容易に想像できるのに、その先を考え始めると、途端に頭が真っ白になる。
特別視などしたことのなかった相手。学園に在籍する自分の生徒のひとり――ではあっても、その他大勢に埋没することがないのは、 学生会副会長という立場ももちろん加味されて――いるからに違いない。


学生会の手伝いは単純に楽しかった。
半強制的に参加させられたとはいえ、啓太と一緒に活動めいたことができるのはもちろん、 中嶋さんの、学生にしておくには惜しいほどの頭脳に付随した博識さと会話するのもまた楽しみのひとつだった。
尽きることのない話題は、決して和希を飽きさせなかった。


あれこれと、取り留めもなく思い出される記憶。考え考え歩くうちに、すでに3年のフロアにまで辿り着いていた。
大体、二次試験も近いというのに迷惑じゃないだろうか。
躊躇い躊躇い、扉をノックすること2回。途端に高まる緊張感で、鼓動が早い…
やがて、無言でドアが開き、中の人が姿を現した。ひりひりするような鋭い眼光と共に。


「…ああ、お前か」


――あれ…?


「どうした。何か用か」
「あ、あの、啓太から何か…」
「伊藤がどうかしたか」


どうやらまんまと術中にハマったらしい。何をおいても啓太のことで腹も立たないが、こうなった以上、咄嗟の状況判断を迫られる。


「中嶋さん、今お時間よろしいですか?」
「何だ改まって」
「その…お邪魔でなければ少し…」


明確に話がある、というのでもない。啓太は本人に訊けって言うけれど、面と向かって訊ねることでもない。
その辺りはまだ、一応冷静さを保てている。


「――理事長自らのお出ましで、いよいよ退学でも言い渡しに来たのか?」


ニヤニヤと軽口で以って、和希を室内に招き入れる。中嶋さんの部屋に上がるのは初めてだった。
シンプルに色味の統一された、落ち着いた雰囲気…この人らしい部屋だ。


「…まさか!」


苦笑いで聞き流したつもりの戯れ言に、中嶋さんはふと思い出したように続けた。


「よくよく考えれば、剛毅な理事長だな、お前も。最悪退学処分になってもおかしくない生徒を見逃して。バレれば無傷では済まないだろうに」
「それは…」


喫煙や飲酒その他、中嶋さんの素行を知り立場上諫めはしても、それ以上何か行動を起こそうとは考えなかった。
それは…


「確かにその通りですよね…」
「今頃気づいてどうする」
「はぁ…」


呆れ声で笑われた。調子が狂う、と暗に揶揄われている気もした。


「…コーヒーでも飲むか」
「あ…」


あくまでも独り言めいた言い回しで、中嶋さんは部屋の隅に向かった。
空気を変えようとしてくれたのかもしれない。気を遣わせたのなら申し訳ない。


そういえば――学生会業務の合間にも何度か、中嶋さんにコーヒーを淹れてもらったことがあったと思い出した。
普段は大抵啓太か和希。初めのうちは啓太も慣れないものだから、中嶋さんは正直に不味いと断言し、けれど淹れ直しを命じたり、飲まずに放置なんてことはなかった。 ちゃんと飲み干した上で、豆の量だとか挽き方だとかを教えたりしていた。
…ついでに思い出した。和希が淹れたコーヒーは、一度も不味いと指摘されなかった…。


「――ほら」
「あ、ありがとうございます…」
「突っ立ってないで適当に座れ」


部屋にはソファも椅子もなく、渡されたばかりの熱いコーヒーカップを手に、少し迷って床に腰を下ろした。


「妙なところで育ちの良さが出るものだな」


中嶋さんはまた苦笑して、正面に自らも座る。
嫌味は何故か耳を素通りし、また別の記憶が重なった。
学生会室で、今と同じようにこの人からコーヒーカップを受け取るとき、綺麗な手だなと感じたこと。
すんなりと長い指が滑らかに動く様子に一瞬眼を奪われたこと。
中嶋さんはそんな風に、遠くもない距離から一歩引いて眺める存在だった。特別、には当てはまらない――


「それで、用件とやらは何だ」
「あ、はい」


それでも、顔を上げて改めて眼が合うと、そのあまりにも完璧な造作に、胸が勝手にどきりと高鳴って、どうにも戸惑う。


「――中嶋さん…もうすぐ卒業ですよね。それで、その…」


やっぱり本人に訊くことではない…しかし何か喋らないと間が持ちそうにない。
激しい動悸は、脈絡のない相談事だけが理由じゃないと…漠然と感じる。


「そのことに関して色々と考えていると、どうしてか頭が真っ白になって思考停止するようになって…それを啓太に相談したところ、 本人に直接訊いてみたらということになって」


ああ…並べ立ててみると馬鹿馬鹿しさの極みだ。相手にしてみれば、だからなんだと鼻であしらわれるレベルじゃないか。
ましてや、他者に対して容赦のない中嶋さんだ。


「……ひとつ訊くが」
「はい…」
「俺の卒業に関して、お前が一体何を考える?」
「――」


確かに容赦なく、ずばりと本質を突いてきた。でも誰だって疑問に思うだろうから、おそらく今のは嫌味ではない…。


「ぐ、具体的には…中嶋さんが卒業したら学園は寂しくなるだろうなとか…」


普段から無表情なこの人の反応は、難解でちっともわからない。
呆れられたのだろうかと想像を巡らすばかりで、だから、続く言葉は余計に信じ難かった。


「伊藤は答えが分かったからこそ、お前を俺のところへ寄越したんだろう」
「…それは――」
「お前の優秀な頭脳にとっては、実に屈辱的なことだな」


ふっと口元を緩めて中嶋さんは…人差し指で自身のこめかみを指し示すジェスチャーをして見せた。


「――教えてやってもいい。お前がそれを望むのなら」
「あの…」


頭の中がぐるんぐるんしてきた。
中嶋さんも(啓太も?)他人の胸の内をそう易々とどうして知り得るんだろうか。もしかしてそんなに分かりやすい顔をしているのか?


「くだらないことに手間を取らせるなって言わないんですか?」
「別にくだらなくはない。お前の認識不足なだけだ」


――えっ…?


「そ、そうでしょうか」
「ああ」


したり顔に、このままいくとあらぬ方向に誘導されそうだと危惧を抱く。訊いておきながら失礼な話だという認識はもちろんある。


「でもそんなに、その、第三者にもわかることならもう一度自分で考え…」
「傍目八目と言うだろう。他人のほうがよく見えることもある。但し今回の件に関しては、お前が気づかないのが俺には不思議なくらいだが」
「………」


完全に馬鹿にされると、むしろされて当然だと思い込んでいた事案に、概ね好意的に且つ前向きに知恵を貸してくれている…ようにも受け取れる…のはどうしてなのだろう。
元々の問題に、更に謎が加わって、益々頭が混乱してきた。


「…どうなんだ?」
「はぁ、もう少しだけ時間を掛けて考えてみることにします」
「そうか」
「はい…あの、可能ならヒントだけでも――」


おずおずと申し出ると中嶋さんは、微苦笑を浮かべて頷いた。
なんだか今日は、よく笑った顔を見る気がする。
冷酷で恐れられる副会長だった頃にも、和希に対しては…比較的穏やかに接してくれていたような――今思えばそうだったかも、くらいのレベルだけれど。













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