食事を終えて島に戻り、橋の中ほどまできたところで、背後から、どこか懐かしい音が追いかけてきた。
どぉん…と腹に響く重低音。振り返れば、遠く空に色鮮やかな球形が一瞬にして浮かび、余韻を残して消えた。
何処かの河川敷で花火大会でもやっているのだろうか。ここからでは数センチに満たないサイズの、夏の華。
橋の上は、多少小さくはあっても特等席だった。

花火など本当に久しぶりで、つい時間を忘れて見入ってしまい、慌てて中嶋さんを振り返った。
すみませんと――謝ろうとしたのだが、声はどこかに張り付いて出てこなかった。
中嶋さんは斜め後ろで、やはり同じように夜空を見上げていた。
同じものを見ているその横顔が、花火よりも確実に眼を奪う。
綺麗な…だけじゃない――上手く言えない――中嶋さんを取り巻く深い色の空気が、どうしてか急に胸を強く締め付けた。
自分でさえそんな感情の流れに驚くほどに。


「中嶋さん…」


呟いた声が、届かなかった音が、また更に胸を苦しくした。





長い夏期休暇が明けて、9月。3年の部活動の引退と時を同じくして、学生会役員もその任を終える。
来期も選挙は行われずに、現会計部メンバーが新執行部に移行することが、先日の生徒総会で満場一致で採決された。



「――長い間お疲れ様でした」
「…全くだ」


啓太を助手に、ファイル棚の整理をしている丹羽会長を視界の隅に捉えて、中嶋さんは冷ややかに微笑う。
今の言葉は大方本音だろう。
王様の放浪癖は頓に有名で、しなくてもいい苦労を背負い込んだ中嶋さんには、こっそり功労賞でも上げたいくらいだ。


あのライブの日以来、中嶋さんと一緒に出掛けることはなかったし、実際顔を合わせるのも久々だった。
啓太は詳細を聞きたがり、かい摘んで大雑把に話してやると、何故かやけに残念そうに肩を落としていたのを覚えている。



「――ところで遠藤」
「は、はい」
「新しい執行部に参加する気はないか」
「えっ?」


あの夜の花火の遠い爆音が、今も耳にこびりついている。
この人を見るたび、胸は軋むようにそこで存在を主張してくる。理由は今も、わからないままだ。


「西園寺の下でこき使われるのは性に合わないか」
「そ、そんなことは…」
「お前は有能だし、今の執行部の動きも把握している。適任だと思うが」
「――」


新執行部に、既存の悉(ことごと)くを覆されることを危惧しているんだろうか。
確かに中嶋さんを毛嫌いするあの人ならやりかねないか…
少し意外な気もしたが、全てにおいて固執すらすることのなさそうな中嶋さんから、
引き継ぎ役を指名されるということが、たまらなく心をくすぐった。


「残りの役員は、西園寺の指名で決まるだろう。お前さえその気なら推薦してやってもいい」
「それは――」


西園寺さんも七条さんも、決して首を縦には振らないだろう。それは理事長の、学生会への介入に他ならない。


「手芸部との両立は厳しそうか」
「あ、あの…俺、は…」


体よくやんわり断ればいい。この人だって、強制しようというわけじゃない。
けれど、口に出来ない事情が両肩に重く伸し掛かる。嘘は言いたくない。
そう思うだけで息が苦しくなる。酸欠で、頭がぐらぐらしてくる。



■ □□■□ ■ □□■□ ■ □□■□ ■ □□■□ 



「――おいヒデ、そろそろ休憩すっか〜?」


ファイル棚の影から、ひょこっと王様が顔を覗かせたのをきっかけに、止まっていた酸素が身体中を巡り出した。


「…休憩するほどはかどったのか」
「おぅよ!」
「あ…じゃあ俺…冷たいものでも買って…来ます」

「――待って和希!オレも行く」


思わず駆け出していた背中を、啓太が慌てて追いかけてきてくれた。


「啓太…」
「和希?顔色悪いけど…どうかした?」
「――」


啓太の声にホッとしたのと、中嶋さんの視線が途切れたことで気が緩んだのか、泣きそうになるのを堪えると、今度は言葉が出てこない。


「和希…」
「俺…皆を騙してたんだよな…1年生のフリ…ってそういう…」
「えっ」
「なんか急にわーって…耳鳴りがするみたいにさ、突きつけられた…」
「――じゃあ和希、ホントのこと、言う? 王様はきっと笑ってそうか!って言うと思うよ。…一発殴らせろって言い出すかもしれないけど」




食堂の自販機まで、どうやって辿りつけたのか記憶は朧気だった。
気づけば啓太が、隣で商品のボタンを押している。ロクに説明もしないのに、啓太は深くを問わないでいてくれる。


「和希は何にする?自分で選ぶ?」
「あ、うん…」


けれど気持ちが揺らいで、上手く選択ができない。


「ほら和希、どれ?押すから言って」
「ん…」
「――中嶋さんは…お茶でいいのかな」
「啓太…」
「うん?」


無様に立ち竦んで動けなくなってしまった理由を、啓太は…啓太なら…理解っているかもしれない。


「この学園のために…良かれと思ってやってきたことなのに…どうして――こんなに苦しいんだろう…」
「………」
「もし、もしもだけど中嶋さんに本当のこと伝え――たら…」


吐き出した言葉をさすがに啓太も受け止めかねて、黙ってしまったのだと思った。
いつまでも停留した空気が続くことを不思議に思い顔を上げ、啓太が言葉を失ったわけを知る。


「――」


「俺が、どうしたって?」
「中嶋さ…」
「お前達がいつまでも戻ってこないと、また丹羽が口実にして逃げ出しかねない」


だから捜しに来たんだと。それが口上なのかどうなのかは、残念ながら見極められなかった。


「――丹羽に、休憩は10分だと伝えておけ」


啓太を体よく追い払うと、中嶋さんは薄い笑みを口元に浮かべる。


「大方、俺の陰口でも言っていたんだろう?」


長い脚が一歩ずつこちらに近づいてきても、端から肢体は硬直して動けなかった。


「そ…んなこ…とは…」
「なら、何をそんなに怯えている」


とん、と背中が自販機に当たって軽く跳ねた。愚かにも後退ろうとしたらしい。
中嶋さんはその真ん前に立ち塞がり、威圧感のみで全てを封じ込める。


「俺に何か言うことがあるんだろう」
「――」


どこから立ち聞きされていたのか、それ以前に、啓太の前で何を口走ったものか、記憶が遠い。


「遠藤」


促す声が脳髄を蕩かすように、言ってはならないことまで口にしてしまいそうなほど、それは甘く柔らかに響き、
背中で自販機が低く唸っている以外、一切の音が世界から消えてしまった。



■ □□■□ ■ □□■□ ■ □□■□ ■ □□■□ 



首を振って、できるだけ眼を背けた。
その人の、肘から下、むき出しの手首までが自販機に押しつけられ、顔の真横で柵を作っている。
視ないようにと努めても、嫌でも視界に入ろうとする、半袖のシャツから突き出た二の腕も、手首の先にある拳の形も、
すんなりとはいかない、ゴツイ男の腕は、ひょろい自分のものとは造りからして違う。


「――お前が今、何を考えているか当ててやろうか」
「え…」


呼気の温度さえわかるくらいに近くに迫った口唇が、不意に囁いたが、意味を理解するまでに暫くかかった。
口元から耳孔までの距離と、脳内伝達の時間は反比例するものなのか――
それともただ、焦るあまりに思考が纏まりを欠いているだけなのか。



「…キスされるんじゃないかと怯え、且つ、心のどこかで期待している」
「な…っ」
「異論があるならいくらでも聞いてやる」
「思っていません。思うわけありません」
「何故だ」


逆にこっちが妙なことを口走っていると錯覚するくらいに、自信あり気な口ぶりに気圧される。


「何故って…俺は男ですよ」


真っ当な主張は、一笑に付された。


「そこまで頭の堅いお前が、伊藤と丹羽の仲を受け入れているのは何故だ」
「それは…啓太が選んだんですから。成るべくして成るものに、異議は唱えません」
「成程。お前はリアリストだと思っていたが、とんだロマンチストだったようだな。
 大方、運命の相手が現れるのを、いつまでも期待して待っているんだろう?」


侮蔑の言葉に、もちろん悔しさが浮かぶのだけれど、頭から丸ごと否定できない自分を自覚してもいる。


「お前の親友が心配するのも道理だ。"和希は恋愛方面にかなり疎い" ――まさかここまでとは、さすがに俺も想像できなかったが」
「――」


経験の少なさは自助努力でどうすることもできない。それもよくわかっている。


「俺がこんな真似をする理由など、鈍いお前は考えもしないんだろうな」
「どうして…って」


反射的に問い返す。獲物はまんまと罠に掛かった。


「…俺がお前を、選んだからだ。つまり、俺はお前が好きだという意味だ」
「――嘘」
「何故そう言い切れる」


信じ難い言葉に、遠ざけていた眼を見開いた。猟人はゆっくり飲み込ませる間も与えずに、畳み掛けてくる。


「言い切れるだけの経験がお前にあるなら、聞き入れてやる」


いくらでもな、と念を押し、もう一方の、ズボンのポケットに長らく潜んでいた手で、無造作に顎をつまみあげた。


「信じさせる方法ならいくらでもあるぞ?」
「こんな場所で何を――…人が来ます」


いくらかでも逃れようと必死の獲物を嘲笑う姿は、人面獣心そのもので、なのに、
更に距離を狭めてくる中嶋さんに、あの夜のように心を奪われている自分もまた同じように存在していた。
伏せ気味の長い睫や、瞳の色が、あの日よりもずっと近いところで。


「ふたりきりで人目のない場所なら構わないのか?そんな拒み方では相手につけ込まれるだけだな」


揶揄い半分の、試すような物言い。


「そんな場合はこう言うんだ。『セクハラも大概にしろ。嫌いな相手と誰がキスなどする』――とな。覚えておけ」








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