ちょっとしたミスで、膨大な書類を処理することになり、和希は溜息をついた。 「今日は行けないっていったら、怒るかな?」 毎日のように中嶋の部屋へ訪ねている和希にとって、彼の部屋で就寝するのが日常になっていた。寮長の篠宮は、毎日のように二人に小言を言っていたが、中嶋との話し合いの結果なのか、最近では黙認してくれている。篠宮には篠宮なりに、寮長としての立場とかもあるのは分かっていた。だが、和希にとっては、それ以上に中嶋といる時間の方が大切だった。以前、それを中嶋に漏らした事があった。 『篠宮さんのいう事は正しいけど、貴方といる時間を少しでも多く取りたいと思うのは、俺の我侭なんでしょうね・・・』と。 それを聞いた中嶋が、篠宮と交渉した結果、無断外泊をしないという条件で黙認することになった。ただ、中嶋から篠宮に報告が行くという方法で、外泊届けは未だ提出したためしが無いが、居場所を中嶋が把握しているというだけで今は説教を免れている。 時計を見れば、すでに点呼の時間は過ぎていて、中嶋にすら連絡をいれていない状況に、少し胸の奥がチリチリと痛んだ。机に置き去りになっていた携帯に手を伸ばそうとした時、石塚に声をかけられた。 「和希様、こちらはどうされますか?」 「あぁ、これは岡田に回してくれ。彼が管理しているファイルの中に資料があるはずだ。それと、この数字だがもう少し細かい数字を出してくれ。あまり大雑把な数値では意味が無いからな」 「畏まりました。それと、明日の会議資料です。こちらにも一通り目を通してください。主だったものは、まとめて別紙に添付してありますから、こちらもお願いします」 「分かった。あぁ、石塚・・・すまないがこの数値をマザーに反映してくれ」 「はい、では・・・失礼します」 石塚が退室したところで、和希は溜息を一つついた。 「コレは・・・徹夜かな」 苦笑して、改めて携帯に手を伸ばすとリダイアルボタンを押して耳に当てた。 「もしもし?」 『何をしている?』 誰とも名乗っていないのに、突然用件のみをダイレクトに伝えてくる恋人に苦笑する。 「すみません、仕事ミスっちゃいました。今日は戻れそうにないので・・・中嶋さん先に休んでくださいね」 『ミス?何をやった』 「企画書のミスです。新薬の発表会が明日なんですが、研究所のデータをマザーに乗せかえる時にトラブっちゃって、数値が全部飛んだんです。で、今その修正をかけているところです」 『まだかかるのか』 「はい、徹夜になるでしょう」 『そうか、ならサーバー棟の鍵を開けておけ』 「え」 『今からそっちに行く』 「こっちに・・・って・・・あの、中嶋さん?」 ツーツーツー すでに切れてしまった電話に、和希は苦笑する。 「手伝って欲しいなんて、思ってもないんだけどな」 和希は、今まで仕事の領域に中嶋を立ち入らせることは無かった。 それは、仕事とプライベートを区別するという信念のようなものだったかもしれないし、もしかしたら、中嶋とは対等でいたいという思いが、そうさせていたのかもしれない。 仕事は仕事、プライベートはプライベート。 中嶋もそれを分かっていてくれたはずなのに・・・。 「情けないな・・・俺」 こんなことで中嶋さんの手を煩わせることになるなんて・・・。 少しだけ、和希の顔が泣きそうになるほど歪んだ。 それでも、恋人の足を止めることは出来ない。そう思って、サーバー棟の鍵を解除する。 会いたいけれど、会いたくない。 「こんな格好悪いところ、見せたくないんだけどな」 ポツリと呟いた言葉は、静かな理事長室に溶けて消えた。 しばらくして、ノックもなく理事長室の扉が開いた。つかつかと早足で歩いてくる中嶋に、和希は困ったような顔をして苦笑する。 「中嶋さん・・・」 「和希・・・今の状況を説明しろ」 「今、石塚にデータの反映をさせてます。岡田に資料のチェックと作成を」 「お前は何をしている?」 「マザーのメンテナンスと同時にプログラム修正。あと、明日の会議資料に目を通して、発表会の準備と・・・あとは、データ処理です」 中嶋はちらりと机の上に束になってある書類に目をやった。 「これが研究所のデータか?」 「はい・・・でも、それは関係者以外閲覧禁止ですから」 そう告げると、中嶋は冷たい目で和希を睨んだ。 「そうか・・・なら、俺は目を通しても問題はないな」 「え?」 「俺はお前にとって部外者じゃない」 そう言い放ったあと、中嶋は書類に目を通しながら言った。 「お前に関わる全てのものは、俺にとっても関わりがある。だから、俺は部外者じゃない・・・和希、お前は会議資料に目を通しておけ。こっちのデータ処理は俺がやる。それから、マザーのメンテは後だ。先にプログラム修正をかけさせろ」 次々に指示が飛ぶ中嶋に、和希はクスリと笑った。こんな風に何でもそつなくこなせてしまうのは、中嶋だからなのだろうか? 和希の顔が、次第に仕事の顔つきになっていく。 「いや、プログラム修正は私がやろう・・・マザーのメンテを同時に下でやらせる方が効率がいい。そちらの処理は、貴方にお任せします」 中嶋に仕事の顔を見せるのは、初めてかもしれないな・・・などと思いつつ、革張りの椅子に座ると、パソコンにテキパキと入力していく。そんな和希の姿に、中嶋は目を細めて微笑する。 「和希、向こうのパソコンを借りるぞ」 「どうぞ」 予備に設置してあるパソコンの前に中嶋が座り、長い指がキーボードを打ち始めた。しばらく、理事長室にはキーボードを叩く音以外しない時間が続いた。だが、それはいつも生徒会室で行っている行動とほぼ変わりなく、和希はスクッと笑った。 「? ・・・どうした、和希」 「いえ、こんな風景がここでも見れるなんて・・・変な感じだなって。いつもは生徒会室なのに、仕事場に貴方が来るのは初めてだから、なんかおかしくて」 「そのうち、それが当たり前になる。今から慣れておけ」 「え?」 中嶋は、CDディスクを和希に投げて寄越した。それを見事に受け取ると、中嶋はニヤリと微笑んだ。 「データ処理は終わった。お前はどうだ?」 「さすが、早いですね・・・こっちも終わりました。で、さっきの言葉の意味は・・・」 「さぁな・・・。それを聞く前に、資料を読むのが先だ」 「中嶋さんの意地悪・・・」 和希がふて腐れながら席を立ち、ソファに腰を落ち着けて書類を読み始めてしばらくすると、中嶋がコーヒーを和希の前に置いた。 「ありがとうございます」 「いいから、集中して読め」 和希は一口だけコーヒーを飲むと、また黙読し始める。中嶋は、そんな和希をずっと見つめていた。 足を組んで真剣に読んでいる和希の顔。 学園生活では決して見る事の出来ない、大人の顔。 (例え仕事でも、俺以外にそんな顔を見せる訳にはいかないからな・・・) まだ、和希には告げていないがココを卒業したらストレートで弁護士になる、と決めている。そして、『鈴菱和希専門』の顧問弁護士になる。そうすれば、片時も離れずにいられるはずだから。 (俺は、お前を守ってやるよ) コーヒーを味わいつつ、心の中で呟いた。 【未来】 |