そういえばこいつは、10年前から何ひとつ変わらないなと不意に思ういつもの朝。


「――英明さん、今日のお帰りは?」
「ああ、何もなければいつも通りだ」
「はい。夕飯のリクエストは」
「特にない」


承知しましたと和希は、迎えの車で一足先に出社していった。
その後、少し遅れて英明も出勤。いつもと変わらない日常風景だった。


夕刻、和希からメールが届く。


『今夜は少し遅くなるので、先に夕飯を食べていてくださいね』


急に接待でも入ったか。呑気そうに見えても、あれで一部上場企業の経営者だ。
特に気にも留めずいつも通り自宅に戻り、通いの家政婦の作っていった夕飯を摂った。
和希が居ない家は、やけに静かな気がする。
TVなど独りではつけることがないから余計だ。


自宅は、和希の所有するビルの最上階ワンフロアを占有している。近隣の騒音とも無縁だ。


「静かだな…」


英明が珍しく呟くほどに、今夜は静寂が深い。
和希が出張で家を空けることも間々あった。
だから特別どうというわけでもないはずだが、今日は特にガランと空間が広い気がする。


風呂に入り、持ち帰った仕事を書斎で片付けていたところで、下のエントランスから呼び出しがあった。
モニタに映ったのは和希の秘書の石塚で、社長をお送りしてきましたと早口に告げると、英明に手を貸してくれと申し出る。
訝しく思いながら1階に向かうと、エントランス前に停まっていたハイヤーの中で、和希がぐったりとシートに背中を預け、青ざめた顔色で凭れていた。


「――どうした」


問いかけには秘書が答えた。


「申し訳ございません…少々度が過ぎたご様子で」


――呑み過ぎた?和希がか?
意外な思いと、とりあえずホッとする気持ちとで、車内を覗き込み声を掛けた。


「大丈夫か」
「……はい」


か細い声だが、意識ははっきりしているようだ。
そのまま車に半身を突っ込み、和希の背中と膝下に腕を差し込み抱え上げると、玄関へ向かい歩き出した。
その後ろを、石塚が荷物を抱えてついてくる。秘書の手にはいくつもの紙袋。
だが詳細を聞き出すのは後だ。


部屋に戻り、ひとまずリビングのソファに和希を座らせると、ミネラルウォーターのボトルを、蓋を開けて手渡してやる。


「飲めそうか」
「……はぃ…」


今にも沈没しそうな有様で、それでも気丈に振舞おうとするのは、部下の前だからか。
和希は、ウワバミとまではいかないがそう呑めない口でもない。
正体を失くすほど酒に溺れるなど、まず考えられない。断りきれない接待で無理矢理――?


「――何かあったのか」


甲斐甲斐しい英明の様子に、呆気に取られていた石塚はハッとして、


「はい、本日は若い社員との親睦…」

「――石塚」
「はっ」


口を割りかけたものの、和希が呼びかけると、仮に酔っ払いであっても上司のひと声には違いない。ぴっと直立不動の体勢になる。


「今日は助かった…面倒を掛けてすまない」
「とんでもございません」


さすがに長年和希の秘書を務めているだけあって、短い言葉の中に含まれた意図を速やかに悟り、


「では私はこれで」


英明にも会釈をし辞そうとする石塚を、動けない和希に代わって玄関まで見送りに出た。
…というのは無論建て前で、その辺を秘書もよく飲み込んでいるのだろう。廊下に出、リビングの戸が閉まったのを確認すると、小声で事の顛末を英明に報告する。


今夜は若い社員たちの親睦会を兼ねての飲み会に参加したこと。特にいつもと変わった様子はなかったし、さほど飲んでいるようにも見えなかったが、普段より酔いが回るのが早く、あんな有様だった――と、石塚は再び頭を下げた。申し訳ありません、と。


「いつまでも若いつもりでいて、ペースにつられたんだろう。たまにはいい薬だ」
「…お身体の調子が優れないのかとも思いましたが、それより、今日は特別な日ということで、気分が高揚しておられたのかもしれません」
「――」


…特別な日?
秘書を見送り、リビングに戻ってくると、石塚が置いていった紙袋が眼に留まった。


「――和希、寝るなら部屋に…」


声を掛けるまでもなく、和希はソファに座ったまま眠りに落ちている。
ハイヤーの中でもそうだったが、ずるずると崩れ落ちてしまわない辺りがこの男らしい。きっちりと、矜持のようなものがどこに居てもついて回るのか。


もう一度呼び掛けて反応がないのを確認すると、華奢な体躯を再び抱き上げ、リビングから一番近い和希の部屋へ運び込んでベッドに横たわらせた。
それでも起きる様子はなく、ネクタイを解きシャツを緩めて、ベッドサイドに水のボトルを用意すると、英明自身はリビングへと戻った。
改めて紙袋の中身を確認してみれば、中には、色とりどり様々な包装紙とリボンで飾られた、それらはどう見ても大量の『プレゼント』――


それを見て初めて、秘書の言う『特別な日』が何を意味するのかを悟る。


今朝、和希は何も告げずに家を出て行った。昨日も一週間前も、一切何も聞かされなかった。
もうじき誕生日なんだと派手に喧伝すればいいものを、自分からは言い出しづらかった…?
英明がそんな雑事に気を回す人間じゃないことくらい、10年も一緒に過ごしていれば十分理解しているだろうに。
それでも10年前とは違い、全く気づかずにいた自分を悔い、ワインの1本でも買ってくればよかったものをと――歯痒く思った。




深夜の静寂を破り、廊下から響いてきた物音に、英明がリビングから顔を出すと、和希がドアを支えに、自室から覚束ない足取りで出てくるのが視えた。


「――どうした」
「あ…」


声を掛けられてやっと英明の存在に気づいたらしい。和希は口籠って何も言わない。言い出し辛いことならば――、


「無理をするな」


言わんとするところを察して駆け寄り、肩を貸して廊下の並びにあるレストルームへと連れて行ってやる。


「…すみま――…」
「遠慮などしなくていい」


何か可笑しい。なんだろうこの違和感は。
和希は英明の手に縋ろうとしない。顔も見ず、なるだけ存在を遠くに追い遣りたい風に感じられる。
寝室に戻っても、何処かぎこちない空気は消えていかない。
余所余所しいのは恥ずかしさからだと勝手に踏んでいたが、どうも種類が違う…
言い出しにくかったのではなく、頼りたくなかった? だから端から告げる気にならなかった…


誕生日自体も初めから――?


そうだとするなら、そこから導き出される結論は、さほど多くはない。


「…和希」
「はい…」
「――いや、なんでもない。ゆっくり休め」


何を言えというのか。ロクでもない想像ばかりが浮かぶ頭では、今更誕生日を祝う言葉さえ白々しい。
今はどんな位置にいるのか。まだ修復は可能か。すでに危機的状況か。明日に引き伸ばすことが致命的な亀裂となるのか。
英明の、明晰な頭脳を以ってしても、冷静に判断することが出来なかった。
ベッドに横になった和希に夏用の肌布団を掛けてやり、


「――気分は?悪くないか」
「はい…大丈夫です、少し落ち着きました」


弱々しい視線に見上げられ、焦燥に駆られる自分が滑稽にさえ思えてくる。


「何かあったらすぐに呼べ」
「………」


和希は何も答えなかった。泣きそうな眼で、じっと何かを堪えているような。
…何に対して?この部屋の空気にか、英明の存在自体にか。疎ましいと、感じているのか。


「俺が居ると落ち着かないか」
「――」


10年の歳月で変わったと自覚できるのは、嫌味が遠回しになったことくらいだ。それがまた、却って情けなさを呼び起こす。


「英明さ…!」


踵を返し去ろうとした背中に掛けられた声さえ、憐憫のように思えてしまう。疑い始めれば、そこから先、留まるところを知らない。


「――どうした」


振り返ることが出来ずに返事だけを投げつける。


「今日は…ご迷惑をお掛けして…」
「お前だってたまには羽目を外すこともあるだろう。気にするな」
「……ハイ」
「それより俺に言いたいことがあるんじゃないのか」
「え…っ?」


とてもここのまま、自分独りの部屋へ戻れそうにはなかった。胸がざらついて絶対に眠れない。


「――俺に、言うべきことがあるだろう」
「何の…話を…」
「もうこの関係を終わらせたいと思った、あるいは思っている…」


口に出した途端、感情は一気に加速した。


「何を言っているのかわかりません」
「それだけぎこちない態度で、今までと変わりないと言い切れるのか。誕生日のことにしたって、今更俺には言い出す気にもならなかったんだろう?」
「――」


本来、忘れていた非を詰られてもおかしくはない。昨日や今日の付き合いでもない――10年、だからこそ、愛想をつかされても不思議ではないのだと、そんな思いも片隅にあった。
慢心していた。どこかで、この男が英明を見切ることなど決してないと。


「違う…」


もつれるような鈍い物音と、英明が振り返ったのが同時だった。
寝台から起き上がり、まだロクに力の入らない両脚で駆け出そうとして和希は、感情と行動が噛み合わずにもたつきその場にへなへなとしゃがみ込んでしまう。


「何をして…」
「――っ…て」


駆け寄り躊躇わずに抱き起こしてやる。


「何だ…?」
「そ…じゃない、俺が…言いたくなかっただけ……」


支える英明の腕を、爪が食い込むほど強く掴んで和希は、呼気と共に思いの丈を一気に吐き出した。


「嫌だった…んです、歳を取るのが。28歳の貴方は男盛りで、なのにあまりにも…俺は」
「何も昨日や今日歳上になったわけじゃないだろうが」
「…10年前は俺も若くて、歳の差なんて深く考えることも、しませんでしたから…」


さっきからのぎこちない空気が、全く別のものにすり替わっていく。
それとも…言葉巧みに誘導されているだけか? 心変わりを気取られないようにするために。


「若いツバメを飼うばーさんか?お前は」


男盛りなどと――聞かされるこちらがこっ恥ずかしくなる。
軽くあしらわれて不満だったのか和希は、うっそりと顔を上げた。両の瞳から、いつもの覇気は失われている。
具合が悪いせいもあるだろうが。


「鏡を見てみろ。お前の何処が、10年前と違う?」


不気味なほどだ。まるで歳月を置き忘れたかのような変化のない様が。


「そんなこと…」
「俺の言葉は信用ならないか」
「――」


和希はもう、ふるふると首を振るのがやっとという感じだった。今は、休ませてやったほうがいい。


「続きは明日だ。もう寝ろ」
「………」


英明の手を借りて、和希は大人しくベッドへ戻った。薄いケットを掛け直してやり、


「おやすみ」


声を掛けたが、半ば朦朧としている和希の耳に届いたかどうか。
果たして明日の朝目覚めて、今夜のことを記憶しているだろうか。


英明はベッドの脇にそっと腰掛け、上体を屈めて酒臭い細君の口唇に鼻先を寄せた。


「――和希」
「………」


聞こえてくるのは寝息ばかり。


「…そろそろ潮時だな。いい加減――本当の歳を聞かせてもらうか、ん?」




明日は一日遅れの誕生祝いだ。


楽しい夜になりそうだな。





−了−





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