朝刊を捲っていた新妻和希が、急に声を上げた。 「英明さん!今日ってオレンジデーなんだそうですよ」 「…それで」 「――読みますね、えぇと…」 別に続きを促したつもりはないのだが、適当な相槌は都合よく解釈されるのが我が家のルールらしい。 「"4月14日は両想いのオレンジデー…" あ、オレンジの花言葉が『花嫁の喜び』で、それにちなんでるみたいですね」 「朝っぱらからイヤラシイ単語だな」 「妖しい変換しないでください、それこそ朝っぱらから…――なんです?」 朝食の粗方片付いたダイニングテーブルのこちら側から、煙草を灰皿に押し付けたその指で、軽く手招きする。 和希は怪訝な表情で新聞を畳み、それでも素直に席を立つと、 「コーヒー、おかわりですか?」 英明が何を命じたか、しっかりわかっているくせに、その辺り一筋縄ではいかない。 「今更恥らってどうする気だ?昨夜もお前の…」 「だッ!」 ダメ押しで和希をこちらに呼び寄せ、おもむろに腕を捕った。 何を要求されるんだと、戦々恐々とした顔もまたそそる。 「"花嫁の悦楽"だったか」 「…だいぶ曲がってます」 「最終的には同じことだ」 「そういうの――」 態度では抗っていても、新妻は軽く引き寄せればしなやかに腕の中に堕ちてくる。 「…和希」 英明の声に弱いのも、今更なほどの事実だ。 背中を震わせ、誘惑を断ち切ろうと無駄な足掻きで、逆に英明の腕に縋る。 「そ、ろそろ…迎えが来ます…から…」 頬へのキスを身を捩って拒み、それでも口ぶりだけは冷静さを装っている。 「俺としては、いってきます――の挨拶のつもりだが?」 「――!」 嘘ばっかり!か、ふざけてる場合じゃ…!か、叫びかけたのはそんなところだろう。 文句は先んじて封じるに限る。 仕事になど出掛けさせたくないのが本音といえば本音だが、そんな自己満足はとっくに卒業した。 几帳面な和希の秘書は、毎朝きっかり同じ時刻にチャイムを鳴らす。 それまでは細君を揶揄い、手遊びで愉しむつもりでいた。 出勤前で、上着もネクタイもなく、ひとつふたつボタンの肌蹴られたシャツと、 そこから覗く素肌が白く、艶かしい。 そこに昨夜の名残を見つけ、そっと舌を近づけた。逃れられるだけの自由はない。 「…っふ……」 肌への柔らかでぬめった刺激に声を押し殺し、喉を震わせる。 「仕事中に俺を思い出して寂しくなっても浮気は禁止だ。俺だけを覚えておけ」 「――…ッ!」 額まで赤に染め、懇親の力で無理矢理腕から解放をもぎ取ると、新妻はいきなり英明を睨みつけた。 そんな甘ったるい眼で凄まれても効果があるどころか、むしろマイナスだが。 「どんな顔して仕事に行けって言うんですかッ!」 …怒ったのか。 和希は身を翻してダイニングを飛び出し、その後やって来た迎えの車で出社して行った。 本当に、いってきます、も告げずに。 その後、少し遅れて英明も家を出た。 都心の事務所へは、電車の方が都合がいい。 弁護士はあまり運転をしないとも聞くが、その点は、事務所のメンバーにも概ね当てはまっていた。 英明は刑事事件を主に扱っていて、一日中外回りも珍しくない。 薄情なわけではないが、今朝の諍いなどすっかり忘れて事務所に戻ってきた午後6時前。 いつもなら向こうから謝罪のメールが届いて、それで全て円満解決、なのだが、 それすらないということは、まだ怒っているのか、それともただ忙しいだけなのか。 ビル内のエレベーターに乗り、事務所のあるフロアに到着。 扉が開き、眼の前を伸びる廊下の端から、異様な眩しさが急に英明の視界を狭めさせた。 西側の非常口付近から零れ溢れる陽光。 日暮れ間近の、沈みかけの夕陽の輝きが、廊下いっぱいに反射して、壁も床も一面オレンジに染めている。 事務所のドアの前で、暫し立ち尽くしていると、そこへメールが入った。 新妻から、添付ファイルつきで届いたものは、今眼の前にある夕焼けの画像―― 『オレンジDAYですよ!』と歳も構わず絵文字まで。 同じ時刻に同じ景色を眺めている、どうやらすっかり似たもの夫婦になりつつあるようだ。 思わず口元に苦笑が浮かんだ。 今日はいつもより早めの帰宅で、8時過ぎに自宅に戻ると、 和希はすでに帰宅済みのようで、少々当てが外れた思いで、 「今戻った」 「――おかえりなさい〜お疲れ様でした」 出迎えた笑顔を見る限りでは、どうやらすでに今朝の怒りは収まっているようだが。 「…英明さん?」 玄関からいつまでも内に入ろうとしない夫を、和希の眼が訝しげに眺めてくる。 帰宅途中、通りすがりの店で、半ば勢いで買ってしまったソレを、後ろ手に隠し持ち、そして僅かに後悔した。 「あ、ご飯まだですよね?今日は――…」 こっそりテーブルの上にでも載せておけば、帰宅した和希が気づくだろうと、そんな予定も無駄だった。 今更後回しにしたところで、どうせすぐにバレる。早いか遅いかの違いだけだ。 躊躇いを振り切り、和希の鼻先に、ずいとソレを突き出した。 案の定眼を丸くして固まっている…4秒、5秒…ちょっと長過ぎやしないか。 「――気に入らないのなら棄てるぞ」 「え、ちょっと待っ…どうしたんですか?コレ」 「買って来たに決まっ――」 「英明さんが!?」 驚くべきポイントはそこか? 「誰かに無理矢理押し付けられたとかじゃなくて?」 お前、何が言いたいんだ… 「…ぐだぐだ文句を言うなら――」 「ダメです、返しません」 苛立ち紛れに奪い返そうとした手を遮り、和希はソレを、大事そうにそっと抱え込んだ。 「嬉しいに決まってるじゃないですか、ありがとうございます。 …ただ、どんな顔して買ったんだろうって想像したら…」 ふふふ、と怪しい含み笑い。 「電車の中だって目立ったでしょう?」 「いや?」 「そんなわけないですよ、英明さんがこんなの抱えて歩いていたら、俺なら絶対…」 くるくる楽しげな企みの顔、和希のこんな様子を見たのは久々かもしれない。 目的の8割はすでに達成されたといえる。 「――腹が減ったな」 ようやく靴を脱ぎ、和希の背中を押して促したが、 「あ、はい。今日はカボチャのニョッキと、ぐじのオレンジソースですよ。 今朝オレンジ色のメニューをリクエストしておいたら――…あっ!?」 廊下の真中で、いきなり立ち止まり、勢いのままに英明の顔を覗き込んで、 「もしかしてこれ、オレンジの日だから…?」 今頃気づいたのか。 「遅い」 「す、すみませ…」 和希の明るい髪色に、オレンジの薔薇はよく映えて綺麗だった。 このまま抱き寄せてやりたいが、花束が邪魔をする。 とりあえずここは、首を伸ばし気味に、頬に口唇を寄せて置くに留めた。 「――そういえば」 「はい?」 「さっき、何を言いかけた」 薔薇を抱いてきょとんと首を傾げる様は、まさしく華のような――だ。 「俺が花を抱えていたら、…なんだ?」 「あぁ!英明さんが花束を抱えて歩いていたら、ですね? 俺なら絶対見惚れますけどって」 「………」 「あれ?ダメでした?」 呆れて嫌味を言うのも忘れた。 すっかり考え方まで似たもの夫婦なのが可笑しくもあり、そんな和希が益々いとおしくもあり。 「…いい香りだな」 「えぇ、本当に」 「風呂に入れればいい匂いがしそうだな。――さぞかしお前も、な」 「え…?」 ぎくりと身の危険を察して、後退ろうとする相手の腕を捕り歩き出す。 「行くぞ」 何処へ、などとは訊かせない。 オレンジ尽くしの締めには、なかなか気の利いた趣向になりそうだ。 【愛と欲望のマスカット劇場/第六夜】 Copyright(c)2009 monjirou Material/10minutes+ +Nakakazu lovelove promotion committee+ |