「お帰りなさいませ」


今戻った、と玄関戸を開けると、出迎えたのは妻ではない別の男。


「お前…」


見覚えのありすぎる顔の後ろからすぐに、本物の新妻も姿を見せた。


「お帰りなさい英明さん!今、石塚と一緒にケーキを焼…」


ふたりしてお揃いのクマのついた色違いのエプロン。やっぱりレースつき。


「和希様、中嶋さんには内緒になさるのではありませんでしたか」
「あ!」


昭和の生き残りの女子高生の如くに、和希はぺろっと舌を覗かせて肩を竦め、
傍らの男は、それを微笑ましく見守る。
…そんな寒々しい光景を、眼の前で見せ付けられる相手の身にもなってくれ。


「ゴメンなさい英明さん。今のは聞かなかったことにしてくださいね」


出来るか馬鹿者。
玄関から一歩中に入れば、辺りに漂う甘ったるい香り。
なかったことに出来てもバレバレじゃないか。


「――邪魔なら消えている」
「そんな邪魔だなんて。本当なら昨日のうちに用意したかったんですけど、
 どうしても時間が作れなくて…」
「申し訳ございません。中嶋さん、和希様をお責めにならないで下さい。
 スケジュール管理は秘書の私の責任です」
「………」


何なんだ、このわざとらしい小芝居は。上司と部下、ふたり揃って。


「――好きに遊んでいればいい。俺は勝手にする」


構わなくていいからと伝えたつもりだったが、


「あ、じゃあ着替えを」


せっかく気を回してやったのに、和希はキッチンを避けて自室に戻ろうとする英明の後を追ってきた。


「手が空かないんだろう?着替えくらい――…」
「――それでは、僭越ながら私が」
「でも石塚…」


新婚夫妻の遣り取りにやんわりと口を挟んだその秘書は、悪びれもせず、
むしろ謙虚さを全面に出し、和希を説得する。


そもそも着替えの手伝いなど、古風で貞淑な妻を演じたい和希の言わばパフォーマンスで、
秘書のコイツに手伝わせる道理など何処にも…




「――中嶋さん、恐れ入りますが、今日はこちらにお着替え下さい」
「…何」


半ば押し切られた形でついて来た石塚を無視して、勝手に上着を脱いでいた英明は、予想外の声につい振り返った。
秘書の手には畳紙に包まれた――…


「――何だそれは」
「詳しいことは和希様にお訊き下さい」


包みを開き、慣れた手つきでそれを拡げる。
仕立て上がったばかりと思しき和服。そこでやっと、和希とこの男の策略にハマったと知った。




羽織までついたアンサンブルは藍色の結城紬で、促されるまま仕方なく袖を通した。
和希にならいくらでも文句を言うものの、コレが相手では、ただ拗ねた子どもとしか思われかねない。
昔を知っている人間というものは、時に厄介だ。


「――よくお似合いですよ。やはり和希様のお見立てです。直しも必要なさそうですね」
「アレはともかく、俺を褒めても出世は見込めないぞ」
「滅相もない。社長のお傍近くにお仕え出来る以上の喜びなどございませんから」


やけに年寄りじみた物言い。すっかり歳相応となった石塚の容貌に、ふと10年の歳月を見る思いがした。
もう40過ぎだったか――なのにその上司は一切の変化なく、不気味なほどだというのに。


「どうかなさいましたか」
「――いや…」


こいつに訊いたところで捗々しい答えが返るとも思えず、適当に言葉を濁した。




「英明さん――入りますよ…?」


そこに、待ちかねたらしい噂の当人がそっと顔を覗かせる。


「和希様、如何ですか?大変よくお似合いですよ」
「ホントに――若旦那みたいです英明さん」
「それは褒め言葉か?」
「もちろんですよ、なぁ石塚?」
「えぇ」


さしずめ策士とその手下は、何やら意味深に顔を見せ合っている。


「それで?随分と手の込んだ企みのようだが、そろそろ本当のところを白状したらどうだ」
「えっ…?」


和希はきょとんとして、ちらりと秘書の様子を窺った。何も言わなかったのか、と問うように。


「もしかして…全然気づいてません?」
「もったいぶるな。お前の身の為にもならないぞ」


いつもの調子で連れ合いを揶揄う声に、何故か隅で控えていた男が吹き出し、


「し、失礼致しました」


わざとらしい咳払いで誤魔化した。それを見て慌てたのは和希で、


「英明さん、今日はほら!大事な日、なんですよ…?」


取り繕うように切り出しても、それでもまだはっきりとは口にしない。


「ですからね?それは俺からの気持ちと言うか…ですね…」


曖昧に濁す和希に、またしても秘書は忍び笑いを堪えている。
コイツがこんなキャラだったなんて、今まで知らなかった。


「――和希様、もうそろそろ教えて差し上げたら如何ですか」
「石塚…」
「それでは私はこれでお暇させて頂きます。――中嶋さん、お邪魔致しました」


唐突だが如何にも秘書然とした微笑みに、頷くしかできなかったが、逆に和希は、


「せっかく用意したんだから、お前も一緒に食事くらい…」
「お気持ちだけ有り難く頂戴致します。何しろ、犬も喰わないと申しますし」
「え?」


そして更にもうひと言。


「明日は午後からのスケジュールとなっておりますので、午過ぎにお迎えに上がります」


それでは失礼致しますと、慇懃に頭を下げる。
和希はまだ引き留めたそうだったが、秘書は無言の笑みで遮り、出て行った。




「和希」


未練がましく、いつまでも扉を見据えて振り返らない妻を、静かに促した。


「どうした」
「……なんだか、すっかり大袈裟な話になってしまったもので」


収拾がつかなくなったか。


「お前が無駄にはしゃぐのは、別に今に始まったことじゃない」
「いい歳をしてって思ってるんでしょう?」
「それは話を聞いてから考える」
「………」


泣き笑いの混じった顔でこちらを向くと、和希は自分から英明の身体に抱きついた。
きっと見られたくなかったんだろう、そんな年甲斐もない表情を。
額を胸に埋めて俯き、小さな声で告げる。


「今日は…世界中で何より一番大事なひとが、この世に生を受けた日です。だから…」


意識しない中に、微かな恨み言が滲む。ホントに気づいてなかったのか、と。


「…そんな日に、秘書が出迎えたりはしないんじゃないか?」
「――ホントはひとりで全部支度するつもりだったんですけど…ちょっと色々立て込んでまして。
 そしたら…」
「よく出来た秘書で結構なことだな」
「…すみません。やっぱりご不快でしたよね」
「………」


嫌味と受け取ったらしく、胸元から聞こえてくる声が僅かに沈んだ。


「俺はそれほど狭量ではないつもりだが…お前はどうなんだ」
「え、俺? 俺が、どうか…」
「他の男に着付けなどさせて、お前は何も感じないのか」
「――」


きっと昔なら、こんな風に直接ぶつけることなどしなかった。
遠回しにじわじわ責めるか、もしくは…無理矢理口を割らせるか――


「もう他の男にくれてやっても構わないような、用無しの亭主になったか」
「そんな…!」


和希はそこでようやく顔を上げる。


「どうなんだ」
「そんなわけない――第一石塚は…」
「俺はお前の髪の毛一本も、他の男になど触らせたくない。今でも、だ」
「英…」


10年前…独占欲はひたひたと傍に忍び寄るように。
今は…はっきりと自分のものになった今の方がより一層――不安でならない。
繋ぎとめる術を手にしても。それが眼に見える形となって、薬指に存在していたとしても。


人間、30近くにもなれば執着などしないものだと思っていたが、どうやら――…


「――」
「何だ?」
「…だって、同居も入籍も俺が言い出しただけで…そんなに気乗りした風でもなくて…」
「適当に同意したんだろうと?」


経営者としての顔しか知らない相手なら、別人と見紛うほどに頼りなさげな眼で、
和希はさながら哀れみを請うように、英明を見つめた。


「今でもそう思うのか」
「えっ…」


呆けた隙を狙って、華奢な体躯を抱きすくめる。


「――まぁどちらでも構わないが」


お前がどう思っていようと、何が変わるわけでもない。


「和希」


胸に埋まる耳殻のラインに囁きかける。


「ひとつ、希望がある。誕生日の」
「な、何ですか…?」


兢々と訊ねる和希は、ある意味正しい。その期待に応えるべく、あえてゆっくりと言葉を選んだ。


「和服など着慣れないもので肩が凝る。何より汚すのも忍びない。だから…脱がせてくれないか…?お前の手で」
「…そ、れって――」



和希は呼吸を止めたように固まって、真意を探ろうとじっと伴侶を見据える。
せっかくの秘書からの厚意を、有効に使わない手はないだろう?





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