午前0時を少し回った。
今頃…学園は昼休みだろうか。

日本との時差は13時間。
久々の海外出張は、すっかり学生が板についている自分を再認識させる。
軽く自虐的な笑みと共に。

時差ボケはそれほどでもない――にも関わらず、なかなか眠りにつけないのも、きっと――…

思い巡らせればまた、自然と緩む口元。

同時に、遥かな距離が寂しくもあり、
隣に在ることが当たり前になっていた温もりを恋しいと思う己の弱さもまた、実感させられる。

せっかく秘書が気を遣って、早めに休むようにと根回ししてくれたのに、
これではいつまでたっても眠れそうにない。

会えないときはいつもそうだ。
あの人のことばかり…考えれば考えるだけ眼が冴えていく。


そうだ、と思いついて、荷物の中から携帯を取り出し画面を開いた。
なかなか機会をくれないあの人を、こっそりと撮った、数枚の写真。
もちろんバレはしたものの、削除しろとまでは言われずに、かろうじて手元に残った――
小さな画面。その不鮮明さが、却って郷愁を募らせる。

含み笑みはいつしか面から消え失せ、ともすれば眼が潤み出しそうになる。


 ――中嶋さん…


気弱な呟きを、声に出したかどうか定かではないが、
ベッドに寝転がりながら、手の中で弄んでいた携帯が突然震え出し、
危うく顔面直下させるところだった。

仕事用ではなく、個人用のこの携帯にかけてくる人間は限られていて、
淡い期待を抱く暇もなく、表示された名前に声を詰まらせた。

「――な、中嶋さん…?」
『…案外ちゃんと通じるものだな』

いつもと何ら変わらない声のせいで、まるで現実味が感じられない。

「ま、まだ今日の授業――終わってませんよね?」
『はるばる国際電話の第一声がそれか?』
「いえあの…」

隠し切れない動揺に、いつも通り隣にいるみたいに、リアルに伝わってくる微苦笑の気配。
その向こうから微かに聞こえてくるのは…

「中嶋さん…今、外ですか?」
『…ああ』

途切れた言葉の隙間から聞こえ漏れる、これは、波の音…?
たった数日離れただけで、懐かしささえ覚える、学園島を囲む海の…

『――全く、遠いんだか近いんだか、な』

遥かに拡がる海原を――眺めての呟きなのだろうか。
そんな、しんみりとした声、で…?

中嶋さんがそんなロマンチストなはずもない。
だけど、想像するのは自由だから。


「――明後日には戻ります。お土産期待しててください」
『ああ、わかった』

許されるのなら今すぐにでも、飛んで帰りたい気持ちを胸に抑え込んで告げる。


『――そうだ遠藤』
「はい」
『あまり無理はするなよ。ひとつ年寄りになったことを忘れるな』
「え…」

反論の余地さえ与えず、見事な捨て台詞と共に、電話はあっさりと切られた。

「中嶋さん…」

遠く日本から国際ローミングを使ってまで、伝えたかった言葉がソレ…?
実際、自分でも9割方忘れていた今日と言う日を、どうやっても素直に喜ばせてはくれないらしい。

仕方ない。
素直じゃない中嶋さんは、素直じゃないから中嶋さんなんだし。

込み上げてくる苦笑い。その半分は思い出し笑いで、
とてもこんな姿を秘書には見せられないなと感じつつ、まだ声の余韻の残る携帯を手の中で遊ばせる。
そこへ間を置かず、メールの着信。

件名もなしに『帰国したら、最低2日は休みを取れ』なんて。
これは――素直…というより正直?

『プレゼント次第で考慮します』と、即座に返信すれば、
『欲しいものを申告しろ。ただし5分以内』

「5分って…」

呻きも呟きも、もちろん届かない。
海の向こうで、そんな様子をにんまりと想像されているような気がする。

…たぶん気のせいじゃなく。


『じゃあ…愛してるって言ってください』

だから意趣返しのつもりで、こっ恥ずかしい台詞を送信してみた。
もちろん半分は冗談。メールだからこそ言える…

でも、それから後、中嶋さんからの返信はぷつりと途絶えた。
しばらく待ってみたけれど、その夜、二度と着信はなかった。

跳ねるような気持ちが一転、ふざけ過ぎた自分を省みて落ち込み、浮上できずに、益々眠れなくなる。




2日後の成田。

仕事中はまだよかった。帰国の便に乗り込んでからはもうずっと、頭が可笑しくなりそうなくらいずっと、
あの人に会ったらどんな顔をしようかと、そればかり考えていた。

ふざけただけだと、中嶋さんなら判っているはず。
取るに足らない些細なことだと思っているはず。
ただ返事が来なかっただけ――

だけど、だからこそ、余計に居たたまれない気持ちが消えない。


「――和希様、お帰りなさいませ」

空港には、留守番役の秘書の片割れが迎えに来る予定になっていた。
人ごみの中で、見慣れた顔を見つけるのはほっとするものだ。

留守中のあれこれを、ざっと掻い摘んで報告するのを聴きながら、その背後、
僅かに離れた場所から、こちらを見ている人影に気づいた。
人波の間に垣間見える立ち姿。絶対に見間違えるはずなどない人の姿。

だけどどうしてここに。

「岡田…彼、は――」
「申し訳ございません。和希様の帰国便を教えろと仰言られて、
 お教えできませんとお答え致しましたら、ならばこちらへ一緒にと強引に――」

頭を下げる秘書に、いや、と答えながらも、すでに視線がそこから離せない。

「――悪いが石塚と一緒に、先に戻っていてくれ」
「和希様?」

秘書が何か言うのも、もう耳には入らなかった。
駆け足でその人の傍まで近づいて行って、もどかしい想いを抑えて呼びかける。

「中嶋さん――どうしてここに?」
「空港まで出向く理由など、そうあるとは思わないが?」

例によってあの口調で、帰国早々嫌味全開…

確かに他の人間なら、そんな理屈も通用するが、
この人に限っては、どんな道理も無言で頭を引っ込める。
だからまさか、迎えに来てくれたなんてありえないことと――…


「遠藤」
「は…」

視線で示す先を追って振り返れば、秘書たちが不安気にこちらの様子を伺っており、
気づかれたと知ると、ふたりはわざとらしく人ごみに紛れて姿を消した。

「――…!」

気を取られていた一瞬、いきなり背後から抱きしめてくる腕があり、

「な、中嶋さん…?」

こんな場面では、やはり衆目が気にもなり。

そんな動揺など全て見透かされていて、中嶋さんは耳殻に鼻先を擦り寄せると、
くく…と低く笑ってみせる。

「中――…」
「安上がりなプレゼントをリクエストされたからな、気を遣って豪華仕様にしてやった」
「え…?」

プレゼントって…リクエストって…

まさか――?




「………」

本当に微かな囁きを、遠い世界の出来事のように聞いた。
周りの喧騒など何処かへ追いやられて、
中嶋さんの腕の中で、それは何故か学園島の潮騒のように耳に届いた。


きっとどこかで秘書は泡を食ってるに違いない。
だけど、そんなことなど気にもならないくらい――幸福な気持ちだったと言える。



…休みは確実に取り上げられそうだが。





【現地時間午前0時】
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