|
帰宅した後の鞄か上着のように、どさりとソファに投げ捨てられた。 「――な…っ!?」 崩れた体勢を立て直す間もなく、最低な男は膝の上に跨り和希の動きを封じた。 「なんの、つもり…で…っ!」 抗議に耳を貸すこともせず、自分のネクタイを引き抜くと、和希の両手首を見事な巧みさで、あっという間に頭上にひとまとめに拘束し終わる。 「…なんのつもりだと?」 感情を抑えた声音が、耳元に近づいた口唇から紡がれる。ゾッとした。 抗う気力が一瞬で失せるほど、低く怒りに満ちていた。 「…こっちが訊きたい」 「な…」 「のうのうと、浮気しました――などと嘯いてみせたのはどの口だ?」 「ですからそれは冗談ってちゃんと言ったじゃないですか!」 四月一日――大っぴらに嘘をついても許される日…だったはず。 「無論だ」 「え…」 「浮気が事実なら、お仕置き程度では済まないと覚えておけ」 たかが小さな嘘ひとつで、どうしてそんな目に遭わなければいけない。己の失言を悔やめとでも言うつもりか。 「ふざけるのも大概に――っ!」 縛られた腕で、闇雲に暴れもがいてみても、組み伏せた男の憎らしいほど整いきった面…その眼は本気だった。 「――他人を暴力で支配しようなんて、最低…の人間…」 罵声もこの男にとっては最高の賛辞だと知っている。 英明は蠱惑的な笑みを口唇に浮かべ、縛めたネクタイの結び目を片手で易々と押さえ込むと、和希の頬を舌先でいやらしく舐め上げた。 「っ」 力で相手を屈服させることを至上の悦びとする英明は、獲物が抗えば抗うだけ助長するだろう。 だからと言って、唯々諾々と従う気は更々ない。 「――俺は…っ、恐怖政治を敷く独裁者なんかと!付き合った覚えはない…っ」 「だったらどうした」 「これを解かないなら、今すぐ別れます」 エイプリルフールのネタなんかじゃない。情けない対抗手段ではあっても、ダメージのあるなしに関わらず、本気だった。 が、肝心の相手は返事を寄越さない。 「…っ」 目下、口唇は柔らかい肌にキスを仕掛けるのに忙しいらしい。 「――盛大な主張は結構だが、お前の肢体は俺と離れて納得するのか?」 挑発の台詞は行動を伴い、キッと眦を上げて睨みつけてくる和希の顔中いたるところにキスを降らせる。 首を打ち振って逃れようとすれば、何処までも追いかけてきて隙だらけの首元に吸い付き、赤い痕を刻み付けた。 「…どうなんだ?」 襟元の合わせ目に指を差し入れ、くんと下に引く。 第一ボタンも外さず生地の隙間に現れた白い素肌に、舌先をねじ込まれた。 首が絞まって苦しいのに、ぞわぞわっと地を這う生き物のような動きに、身体が反応しようとする。 英明の言葉通りに。 この男の手によって快楽を植え付けられ、この男の手によって全て暴かれた、和希の肢体。 否応なく、流される。 「どうせ貴方は…俺でなくても――別に誰だって、いい…くせに…」 「話をすり替えるのは論理的な会話ではないな」 「ん、…んっ」 耳朶に歯を立てられた。行動と正反対の冷静さが余計に憎らしい。 一度憎いと思えば、かつて好きだと思ったことなど全て砂のように脆く崩れる。 「――昔の人は本当に…旨く言っ…たものだと、思いますね…」 「…なんだ」 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い、って」 その名の通り英明(えいめい)な男は、すぐに和希の言わんとするところを察し、 ニヤリと悪擦れした――しかしそれでも魅力的な笑みを浮かべて見せた。 「こうも言うな。Too much love will often lead to the deepest hatred.(可愛さ余って憎さ百倍)」 「中嶋さん」 「言い得て妙だ」 「俺は、これを解けと言ったんです。聞こえましたか」 苛立ちは逆効果だ。わかっていても、屈辱的な体勢は、冷静さをことごとく奪う。 「――まだお仕置きは終わっていない。ネクタイ一本ではまだまだレベル1だ」 「知りませんよそんなこと!」 なんだレベルって! 「貴方の趣味にこれ以上つきあってられない。別れると言っ――……ん!」 いくら罵倒してみたって、こんな状況であることに変わりはなく、厚みのある掌が和希の細い顎のラインを覆ってしまえば、顔を背けることも叶わない。 憎らしくてもまだ嫌いになれない相手とのキスを受け入れるのに葛藤が生じる。 んーっと口唇を引き結んだささやかな抵抗を英明は微笑い、和希に合わせてちょんっと上唇を啄んだ。 飴と鞭のように、自ら谷底に突き落としておきながら優しく手を差し伸べる。 その手には乗らない――意志は強いつもり。 だけど、英明のキスがどれだけ甘く心地よいかも知っている。 決して焦らず、撫でるようなタッチでゆっくり行き来する、別の生き物のような口唇と舌先。 時折強く吸い上げたり、実に辛抱強く反応を引き出して、ついに口元が綻びかけた。 それでも、最後の矜持で奥歯を噛み締め耐えた。舌なんか入れさせてたまるかと。 そんな無駄な努力をどう受け留めたのか、英明は更に根気よく刺激し続ける。 襟足から耳の後ろ、髪の生え際を指先でかき混ぜられて力が抜けた。 弱いポイントは英明の手の方が本人より余程熟知している。 緩み出した歯列を割って、肉感的な舌が潜りこんできた。決して無理矢理にではなく、英明のいつもの強引さは影を潜めている。 ヘン…だ。 そう思った時点で心が揺らぐ。 そんな隙を見逃すはずもなく、即座に深く穿たれた。為す術もなく反応を引き出される。 供される餌のように、踏ん張りも虚しく喰われてしまったあとは、ただ流されるだけ。 「――っん…」 時間が、恐ろしくゆっくりと進んでいる気がした。 身体の自由を奪われて、されるままになっている自分――を、愚かだと思う。情けないと思う。 強いはずだった意思など、消し屑のように飛んで消えた。 いつだって、自分の意を通す英明に強引に引きずられる。 その状況を結果的に受け入れているのは、ただそれも自分の意思には違いない。 手首の戒めが、ネクタイが、英明の手によって急にするりと解かれた。何を思っての行動なのか、俄には判断できない。 同じ体勢で長く固定されていたせいで、肩の関節がギクシャクした。 けれど、解放された腕はきちんとその行き先をわきまえていた。 空に向かって両の手をさし伸ばすと、英明の首元を抱え込んで引き寄せる。 自らの行動ではないような大胆さを、その人は微笑うに違いない―― 別れるんじゃなかったのか? なんて、もっともらしい顔で。 それが当然考えられる流れであったし、甘んじて受け取る覚悟もあった。 けれど英明は揶揄いもせず、まして嫌味も口にはせず、キスを貪ってくる。 余裕のない、せっかちな仕種でシャツのボタンを外すと、前合わせから忍び込ませた手で薄い胸板をまさぐった。 厚みのある掌に素肌を擦られるのがたまらなくて、背中が打ち震えた。 随分と虫のいい話だ。さっきまであんなにいきり立っていた心が、ぐずぐずに蕩けて大変なことになっている。 浅ましくて嫌になる。こんな自分が。 でももう――和希を縛るものはない。 「二度と…口にするな」 「――え…っ」 「浮気したなどと」 「あれはっ、冗談って…」 「でなければ、お前を拘束して部屋に閉じ込めておくしかなくなる」 和希の顔を覗き込む眼差しにいささかの揺らぎもなく、本気だと心の底から知らしめた。 「どうし…て」 思わず訊いてはみたものの愚問は違いなく、問う声も尻すぼみだ。 「――お前が、俺以外の男など見ないようにだ。目隠しをし、手を縛り、連れ出されないよう足枷をつけ、監禁する」 何か間違っているか?と言わんばかりの表情だった。 思わずいいえ、と答えてしまいそうなほどの、過剰な自信。 「…でも俺は、独占欲を愛情と履き違えるような子どもじゃない――」 英明は、柔らかい笑みを浮かべて、和希の言葉を受容する。 「力に訴えなければ、お前は俺の手などすり抜けて何処かへ行ってしまうだろう?」 「――」 和希の知る、帝王たる英明の吐く言葉ではついぞなかった。 また揶揄われているんだと、どうせロクでもないことを企んでいるんだろうと思うのは容易い。 それでも今は、額面通りに受け取っておく。 本当に、この男にはとことん甘い。惚れた弱みというものは、際限なく人を駄目にする。 もしかしたら英明もそうなのかな、なんて… 「――馬鹿ですね…、俺はここにちゃんと居るのに」 突拍子もないような想像は、気持ちを穏やかにさせる。 幼い人を宥める仕種で、その形のよい頭ごとそっと抱き寄せた。 「ふ…」 はだけたシャツの胸に、されるまま頭を預けて英明は軽く笑った。 「そうだな…お前の言う通りだ」 「――!…ん…っ!」 たまたまそこにあったから、とでも説明しそうなくらい無造作に、英明の指が乳首をきゅっと摘んで立ち上げる。 「確かにお前の言う通りだが――さすがに仕事先までくっついていくわけにも行かない」 「え…」 「お前のここに…リングを装着する。ニップルリング――というヤツだ。仕事中にも何処にいても、いつでも俺を思い出せるように。――レベル2、だな」 あんまり真面目腐って言うものだから、何を告げられたのか本気で理解が追いつかなかった。 英明の専売特許のような無表情を、こんなに恐ろしいと思ったのは初めてだ。 「あの、もちろん冗談…ですよね?」 「無論――四月一日はもう終わったな」 −了− 【アンケ御礼】2011 monjirou |