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『――伊藤 啓太』 「はいっ」 講堂に明瞭な声が響いて、啓太は勢いよく立ち上がった。やはり緊張しているのか、多少ぎくしゃくした足取りで壇上へ向かい、恭しく証書を受け取る。 啓太は今日、三十余名の生徒たちと共に、学園を卒業する。 この三年で背も伸びて、今じゃすっかり頼れる先輩だ。残念ながら一緒に卒業することは叶わなかったけれど―― 「…理事長、お顔がにやけてはりますよ?」 「……気のせいだ」 隣で副理事がこっそり耳打ちするのを、渋い顔で往なした。大事な場面を邪魔しないで欲しい。本当ならカメラを回して永久保存しておきたいくらいなのに。 啓太が卒業証書を手に壇上を下りる際、下級生の席から控えめな拍手が起こった。小さく手を挙げ、それに応える姿に、こっちまで涙腺が緩みそうになる。 「――卒業おめでとう、啓太」 式の後、中庭で啓太と落ち合った。卒業生たちはもう粗方引き上げた頃だろう。 「ありがとう。和希も…スーツかっこいいぞ」 「そ、そうか…?」 屈託なく褒められると、こそばゆくて頬を掻く。 「和希、式の途中で加賀見さんと内緒話してたろ」 「え?見てたのか?」 「来賓席とか主催者席って意外と目立つんだよな」 「そうなのか、気をつけるよ」 本当なら、啓太の隣で一緒に今日の日を迎えるはずだった。図らずも理事長として、主催者側に立ち、おまけに式辞まで述べることになるなんて、少し前まで考えもしなかった。 「…ごめんな啓太、一緒に卒業できなくて」 「そんなの…それに、和希も卒業――するようなもんだろ?」 少し大人びた笑顔に、三年の年月を思う。 「ああ…そうだな」 今年度限りで理事長職を退き、春からは本社勤務が決まっている。啓太と同時に学園を去ることになる。 「…和希、中嶋さんとは会ってるのか?」 「え?いきなりなんだ?」 「最後に会ったのって、いつ?」 「え、えーと…正月に旅行したとき、かな…?」 勢いに押されて白状したことで、そういえばもうそれから2ヶ月も経っている――と改めて気づいた。引継ぎもあって慌ただしく、ロクに連絡もしていなかった。 「それでいいのか?和希は」 「う、うん…まぁ向こうも忙しいだろうし。でも啓太、どうして急に」 ――そんなこと言い出したんだ? 「…俺さ、和希……、和希のこと好きだよ」 「啓…」 ほとんど変わらなくなった目線で、啓太は真っ直ぐに和希を捉えて告げる。間違いのない言葉を。 「俺だって啓太のこと好きだよ」 それはずっと、本当にずっと昔から変わらない気持ちだった。でも啓太は哀しそうに眼を瞬かせ、違うと何度も首を振る。 「――中嶋さんには敵わないけど、俺なら絶対和希のことほっとかない。ずっと一緒にいたいし、いつも…役に立たなくても助けてあげたい。 和希のこと好きだから。ちゃんと大事に思ってるから。だから…和希、お願い――俺を、選んでよ」 「啓…太」 春先の生暖かい風が、ばたばたと見納めになる制服をはためかせる。舞い上がる埃に、眼を開けているのがつらいほどだった。 本当ならこの後一緒に食事に行って、卒業祝いをする約束になっていたが、啓太は言いたいことだけ言うと、「また連絡するな!」 なんて笑顔全開で駆けて行ってしまった。 「啓太…」 ぬるい風に頬を撫でられても、しばらくその場から動けずに居た。 泣きじゃくるばかりだった記憶の中の少年は、今あんなにはっきりと自分の感情を和希に投げかけてきた。 胸が苦しくて堪らない。直に鷲掴みにされた気分だ。 英明の存在があるから、啓太の想いには応えられない…と言えば単純な構図だが、例え英明の存在がなかったとしても、啓太をそんな風には想えない。 恋愛感情など通り越して、ただいとおしい。偏に護ることだけを考えこの3年近くの歳月を過ごしてきた。 それなのに――どうにかしてその気持ちに応えたいと、啓太を傷つけたくないと、そんな思いを抱く自分に愕然とする。 矛盾しているのは重々承知だ。 今すぐ追いかけていって、抱き締めてやりたいとさえ… 「――案外安っぽい男だな。鈴菱理事長は」 啓太が去った方向とは真逆から聞こえてきた声は、決して間違えようのない、間違えるはずのない、 「英…」 どうしてここに、と訊ねる前にその声は答える。 「今日で理事長の見納めだからな」 わざわざ見に来てやったんだ、としたり顔で。 「――啓太…ですか…」 そんな見え透いた理由は誰も信じない。だとすれば、思い当たる原因はひとつだけだ。 「ああ。宣戦布告のつもりか、お前に告白すると昨夜連絡があった。――どうやら一足違いだったらしいな」 英明は、顔色ひとつ変えずあっさりと口を割った。 「お前を独占しておく権利などないなどとほざいていたな。俺も侮られたものだ。尤も…お前にとっても同じだったようだが」 「同じって、何の…」 誤魔化そうとしても動揺は如実に表に現れる。 他のどんな場面においても、例えば業界のお偉方を前にしたときにも、議員バッジをつけた古狸達とやり合うときにだって、動揺などまずすることがない。 なのにこの男の視線に晒されると途端に駄目になる。出逢った頃から、ずっとそうだ。 「――伊藤の言葉に絆されて、俺を捨てる気になったんだろう?」 「そんなこと誰も…っ」 言っていない。口にした覚えはない。でも見透かされている。 「俺は、啓太を傷つけたくなくて」 「結果、俺が傷ついたとしてもか」 「――っ…」 傷つくだって?誰が? 他者を傷つけても自らはかすり傷ひとつ負わない中嶋英明という存在からはあまりにも遠い言葉。 それでも、啓太を想うあまり肝心な部分が見えなくなっていたことに、今やっと気づかされた。 「…どうするつもりだ」 「え…?」 「俺と伊藤と、どちらを選ぶ」 「どっちって」 結果などわかりきっているくせに、わざと答えを言わせようとする底意地の悪い英明を知っている。 でもきっと…きっと今はそうじゃない。 「俺以外の男など見るなとは言わないんだ。昔みたいに」 「俺はそんなに年寄りになった覚えはないが」 冷ややかで薄い笑みはあの頃と同じようでいて、違う。 過剰なまでの余裕と自信は相変わらずで、でも、英明がこの学園を巣立って二年…増し加わったのは、人目を惹きつけてやまない研ぎ澄まされた艶やかさだけじゃなく、 他者に対しての寛容さなのかもしれない。漠然と、そう感じた。 「俺は…英明以外の誰かを好きになったり出来ないと思う」 「………」 英明でなければ―― 「貴方でなければ啓太を選んだかもしれないけど」 この男とは逆に、自分は狭量になった気がする。閉じた、と言い換えてもいい。 英明以外の人間を選ぶなど、端から無理。 それでも、自分の感情を捻じ曲げてでも、啓太の手を取りたいと願う気持ちがあった。 「…つくづく面倒な男だな、お前は」 すぐ傍から呆れ声が、和希を柔らかく包んで覆う。 気持ちが伴わないのにその手を取れば、啓太だって傷つく。自己満足でしかないことは、理解り過ぎるくらい理解っている。 酷い言葉をぶつけた和希を、英明のほうから切り捨てたって不思議じゃない。 「不器用な男だとも言えるな」 「うん…自分でもたまにそう思う」 「――そろそろ行くぞ」 「え?って、何処へ?」 ふっと空気を変える力は見事なものだと、憔悴を忘れて感心した。 英明の大きな手が、説明より先に肩を引き寄せ促してくる。 「新居だ。そのために迎えに来たんだからな」 「新…って英明、いつの間に引越しなんか。全然聞いてなかったけど」 「お前は忙しい身だからな」 「…?」 微妙に噛み合わない会話の理由はすぐに明らかになった。 「お前の荷物は全て搬入済みだ。安心しろ」 「は…? え、ちょ、それってどういう…」 「新生活のスタートにはそれ相応のものが必要だろう。何か問題か?」 まるで意味がわからない――そんな和希を放って、英明はさっさと正門に向かって歩き出している。 「待っ…」 啓太の走り去ったその方角に、大きな背を追い掛け自分も走り出した。 「もっとちゃんと説明…っ」 意外なことに、英明は和希の追いつくのを待って立ち止まり、顔半分だけ振り返った。 「そう焦ることはない。必要最低限のものは粗方揃えてある。但し趣味に文句はつけるなよ」 「だから、そうじゃないって…」 言い募る和希に、英明は眉を顰め、わざとらしく困惑の様相を浮かべて見せた。 「じゃあなんだ?」 企みを口唇にありありと乗せて、実に楽しそうに。 「なんだじゃないって。勝手なことばっかり」 「言っておくが同居に異論は認められないことになっている」 「いやソコ、一番重要な」 「石塚の許可は取得済みだ」 「なん…っ?」 「でなければお前の荷物など勝手に運び出せないだろう?」 「それ以前に打診だとか、物事には段階と言うものがあるって知っ…」 躍起になって訴えたところで、何もかも無駄だということは、この男の顔を見れば…否、見なくてもわかる。 その上、数多の人間を魅了する眼差しと声で「嫌なのか?」なんて訊かれたら、これ以上文句も言えない。 こっちが、聞き分けのない子どもみたいじゃないか…。 「――しょうがないから諦めるけど、今度からは前もって相談すること!」 「それではサプライズにならないだろう?」 「…サプライズ?」 英明は、これ以上ないくらいの極め付きの笑みを浮かべて告げた。 「副社長就任、おめでとう」 「あ……うん、ありがとう…」 突然の祝辞にも、ズルイなぁと、今はそんな感想しか浮かばない。 こんな風に人は変わるんだな…って。 「お前のことだ、どうせあれもこれもと揃えたがるんだろうから、ついでに買出しに行くか?」 「うん。――着替えてくるから少し待っててもらっていい?」 サーバー棟に向かおうとする和希の背中に、英明が声を掛ける。 「――そのうち、伊藤も呼んだらいい。新しい部屋に」 「……いいの?」 以前の英明を知る身としては半信半疑ながら、本当に随分心が広くなったものだと振り返った。 「ああ。もちろんだ」 「………」 うらうらと差し込む陽射しとは相容れない、薄ら寒さをひしひしと感じつつも、絶対何か企んでいる…の疑惑はとりあえず胸にしまっておくことにする。 春、三月。旅立ちのとき。 −了− 【アンケ御礼】2011 monjirou |