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和希はその晩珍しく憤懣を全身で表わし、英明に八つ当たりした。 但し、今日に限ってはまだ、英明が何かしでかしたわけではない。 「大体おかしいと思いません?読み取れって言ったって限度というものがありますよ!」 「…帰国子女らしい意見だな」 「――どうせ、中嶋さんは日本語の奥深さがよぉくわかっていらっしゃるようですからねっ」 「………」 どうも問題は根が深そうだ。きっかけは今日の授業だと言う。 現国だか古典だか、明晰な頭脳が唯一手を焼くその理由を理解できないわけじゃない。 要するに和希は、言葉の裏にある秘められた意図を読み取るのが苦手らしい。 「その言い方ですと、俺が空気の読めない馬鹿みたいじゃないですか。そうじゃなくて! 『物言えば 唇寒し 秋の風』でどうして、人の悪口を言うと後味の悪い思いをする、になるのかってことです!」 「文句なら芭蕉に言え」 「ですから!」 和希はひと息にコーヒーを飲み干し、気を吐いた。 そもそも新しいコーヒーマシンを手に入れたからと、それを携え突然押しかけてきたのは和希だ。 秋の夜長をまったり堪能したいとかほざいていたくせに。 こう見えてこの男、意外と新し物好きらしい。毎日、恐ろしい数の新聞雑誌に眼を通し、常にアンテナを全方向に張り巡らしているからだろう。 つまり――多忙を極めるエグゼクティブの頭脳にとって、日本語とその奥に秘められた意味を推し量るのは合理的ではないということだ。 「…何か言いました?」 「いや?」 英明も自分のコーヒーを飲み干し、カップを脇に置く。憤る和希の姿をニヤニヤと眺めるのも、秋の夜長の悪くない趣向ではある。 「――馬鹿だと思っているんでしょう」 「お前…酔うと性質が悪そうだな」 カフェインでこの有様では。まったりどころではない。欠片もない。 「――それでお前は、"唇寒し"をどういう意味に取ったんだ?」 「……聞いたら笑いますよ絶対」 「そうだな…、『口を開けば秋の冷たい風が入ってくる』…そんなところか?」 「ちょ…いくら俺でもそこまでは――」 「そうか?」 「そうですよっ」 当然、普段から他人に馬鹿にされる、見下される――なんてこととは縁遠い筈の和希は、さすがにちょっと反省したのか恥ずかしくなったのか 、しおしおと大人しくなった。 まさか、図星だったわけでもあるまいが。 「――秋の夜長を愉しむんじゃなかったのか?」 さっきからしていることといえば管を巻くくらいだ、と半分嫌味の残り半分はニヤニヤ持続で問えば、 「そうですよね!」 ぱっと眼を輝かせ、和希は恐ろしく素直に方向転換して見せた。変わり身の早さに、英明も思わず失笑を浮かべる。 「せっかくの貴重な時間ですから…」 そんな和希のわかりやすさは嫌いじゃない。 腕を伸ばして肩を抱き、和希の肢体がバランスを崩すのも構わず引き寄せた。 「――物言えば…だったな」 「はい?」 「逆説的に考えて、黙っていれば口唇も暖かい――でどうだ」 新解釈を聞かされて、きょとんとする和希に前振りもなくキスをする。 初めのうちこそびっくりして身を硬くしたものの、和希は柔軟に英明を受け入れる。 そのまま床に転がして、華奢な上体にすぐさま伸し掛かった。 和希は眩しそうにうっすらと瞼を開け、相手を見返してくる。 艶かしい眼差しや僅かに開いた口元が扇情的で、堪らない。 「…秋の夜長などとわざわざ限定する必要もないだろう。夏だろうが冬だろうが、朝だろうが昼だろうが、やることはひとつだ。悩むまでもない」 「……そういうの、女の子に嫌われるんですよ。ムードがないって」 「有象無象などどうでもいい。お前はどうなんだ」 「………」 和希は押し黙り英明を見上げている。 返答などどうせ遠くにうっちゃられるってことに、聡明な理事長はとっくに気づいているだろうから、 ここは、「そんなことを改めて訊くな」だと勝手に判断して、秋の夜長とやらをとっくり堪能しようじゃないか。 −了− 【アンケ御礼】2010 monjirou |