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四畳半に、キッチンなんて呼べない流しがついていて、もちろん内風呂なんかなくて、毎日銭湯通い。楽しそうですよね! トイレは一応あって、でも和式でタイル張りなんですよ。 壁は…何て言うんですかざらざらしてて触ると剥がれそうな…綿壁?そんな名前なんだ。中嶋さん 無駄知識多過ぎですよ。 それでえーっと、ちゃぶ台で向かい合って食事をね、するんですよ。 …あ、怒ってひっくり返すのはナシですからね?…似合いそうですけど。 え?…駄目って? 「――壁が薄いのは問題だろう。特にお前にとっては」 「え…」 閨での寝物語に水を差されて、和希はしばしきょとんとし、英明の薄笑いの指摘に思い当たって色白の顔を赤くした。 「…どうしてすぐそういうことを中嶋さんは…!」 「それに、風呂がないのではお愉しみも半減だ」 「また!」 「――第一、お前に貧乏暮らしなど耐えられるとは思えない」 「そんなことは、」 ないと思います…威勢よく続くはずだったが、自信のなさが如実に現れ尻すぼみになると、 英明はそれ見たことかと皮肉な物言いで和希を揶揄う。 「大体お前は生活に疲れた主婦か?」 駆け落ちの妄想など、今時昼ドラでもありえない―― そもそもどこからやってきたのかそのくだらない話題は、ピロートークにはぴったりだったかもしれないが、 如何せん相手が悪すぎだった。 それに、と底意地の悪い人はちくちくと和希をいたぶって愉しむ。 「出奔したところで、お前の個人資産で十分まともな生活が可能だろう」 「そういうことは言わないものですよ…」 「くたびれた主婦には貧苦も浪漫のうちだからか?」 わかったようなことをほざいて、ふっと鼻であしらわれる。図星には違いないから、言い返せば墓穴を掘るだけだ。 「…興味本位で貧しい暮らしをしてみたいわけじゃないですよ。ただ、そういう生活もありかなって」 本音は少し…違う。言えばきっとまた曲解されるから口を噤む。 いつまでも今の暮らしや立場が続くとは限らない。あってはならないことでも、今後何が起こるかは誰にもわからない。 駆け落ちは極端な発想にも思えるが、いざとなったら。もし、万が一のことがあれば。 「地に足をつけた生活をしたいとでも言う気か。それこそセレブの傲慢にしか聞こえないが」 「…いいんです。バイトだってなんだってやりますよ、俺だって」 「バイトで食っていけるほど、そう世の中甘くはないと思うがな」 「――もちろん、駆け落ち前提なんですから、中嶋さんにも働いてもらいますよ。…ホストなんてぴったりじゃないですか?高収入そうだし」 「………」 ちょっとだけ自棄になっていた。やっぱり言わなければ何も伝わらない。わかっていても歯痒い。 「空手の先生なんかもいいですね。あ、師範の免許とか要る…」 最後の呟きの直前で、和希は言葉を飲み込んだ。 英明がじっとこちらを、あの、獲物を今まさに捕らえんとする眼差しで、僅か数センチの至近距離から、見据えている。 いくら見慣れていたって鼓動は勝手に早まっていく。 「なに…」 おそらく声は掠れていた。そんな、届いたかどうかも怪しい問いかけに、たっぷりと厭らしいくらいの間を置き、やがて答えが返ってきた。 「…お前は、仮にどんな状況に陥ったとしても、仕事より俺を選ぶことはない」 「――」 回答にはならない答えだった。 真意は知れない。けれど、いつものように和希の心裏を見透かして、わざと遠回しに和希を試す―― 試されるのは嫌いじゃない。表情を滅多に面に出さないこの人の、気持ちの隙間を垣間見れるなら。 ただ、一筋縄ではいかない。今この人が欲しいのは、俺を信じてくださいなんて軽々しい言葉じゃない。 絡みつく視線から逃れたくて、ぎゅっと英明の首元にしがみ付いた。 こんな姑息な手段でしか伝えられない。貴方が誰より好きだって。大切だって。必要だって。 『駆け落ち』がしたいんじゃない。ずっと一緒に居たいだけだって。 「何があっても俺は…決して……、――一緒に死んでくださいとはお願いしませんから、安心してくれていいですよ」 誤魔化したことさえ総て悟られているような気がする。 英明はふっと口唇を緩めて、その形のまま和希に触れた。 優しいキスは、苦い後悔の味――こんな話題、口にしなければ、よかった。 【アンケ御礼】2010 monjirou |