|
「…それで結局、卒業祝いは何が欲しいんですか?中嶋さん…」 応えがないことを承知の上で、小声でそっと横顔に呼びかけた。 和希の隣でそのひとは、微かに寝息を立てて眠っている。引越し疲れ…だろうか。あんまり似合わない理由だけれど、和希より先に眠りに落ちるなんて、格段に珍しいから。 まるで疲れを知らないようにも思える18歳は、この春、和希の手元から巣立ち、大学生となる。 正直まだ、その実感は薄い。真新しいマンションに、真新しいベッド。マットレスに背中が馴染むまでもう暫く時間が掛かりそうな、そんな、 いつもと違う感覚に気づく瞬間、離れるってことがほんの少しだけ、身近に感じられるけれど。 ベッドだけじゃなく、新生活に必要な机、テーブル、電化製品、リネン類、食器…諸々一式を、先日一緒に揃えに出掛けた。 よかったら選ばせて欲しいとお願いして、強引にくっついて行った。 ああでもないこうでもないと、悩みに悩んで結局一日仕事になってしまって、それ以上にはしゃぎすぎて、中嶋さんもだいぶ呆れていたようだ。 だってこんなこと滅多に出来ないから貴重な経験だと誤魔化したものの、本当の目的は、必要品目リスト中のひとつでも支払わせてもらって、卒業と入学のお祝いにしたいなと―― 考えていたのに、中嶋さんはどうしても頷いてはくれなかった。カーテン1枚で構わないのに、ファブリックだって選ばせてはくれても、贈られるのは嫌だと首を振る。 「お前の財布を見括っているわけじゃない」と微笑って言う、その気持ちは何となく理解できる。頼りたくないって。 逆の立場なら、自分だって同じように考えるかもしれない。頭ではわかっているのに。 引越し当日は仕事で、手伝いには加われなかった。差し入れの夕飯を携え、マンションを訪れると、届いた荷物はまだ半分ほど積まれたままで、 梱包を解いた後のダンボールなどが床に散乱し、部屋は酷い有様だった。 「わ…これは結構……あ、俺、手伝いますよ」 「ああ、今日はもういい、いい加減切り上げる」 うんざり顔で中嶋さんは、リビングの床に、強引にスペースを作った。 「――レンジが使えるかどうかわからなかったので、サンドイッチ…テイクアウトしてきたんですけど。あとスープも。冷めないうちに」 「…悪いな」 昼もロクに食えなかった、と和希の差し出した袋を受け取ると、フローリングに足を投げ出した。当然テーブルもまだ出ていない。 「…全く、予想外に手間取った」 そして珍しく愚痴をこぼす―― 引越しの片付けは確かに重労働で面倒な仕事だろうけれど、新生活に向けての作業はイコール、和希との別離を意味する。 そう思えば胸がもやもやして息苦しくて、ロクな返事も浮かんでこない。 「…この調子だと、まだ二、三日は掛かりそうですね」 「この部屋が最後だ。明日には片付く。他はもう済んだから安心しろ」 「安心…?」 「乱雑な寝室ではそんな気になれないなどとお前が言い出すと困るからな」 ニヤリと口の端を上げる、いつもの人の悪い笑み。 「ど…どうしてすぐそっちに話を持っ――」 「ゴミと埃まみれのほうが燃えると言うなら、俺は一向に構わないが?」 「またそんなことばっかり…」 呑気に軽口に応じる気になんか全然なれないのに。 「――それで?今日はゆっくりしていけるのか」 「…そんなこと言われた後に、うんって答えられませんよ」 「ほぅ、それなら…」 「――な、中嶋さんさえよければ」 「よければ?」 「お邪魔でないなら、ゆっくりしていきます…」 不穏な空気を察知して、慌てて訂正した。 満足そうにふっと微笑う中嶋さんは、気づきもしないだろう。和希が今、どんな思いでいるのかなんて。 新しいベッドを汚すのは気が引けると言うようなことを訴えた気もするが、無論聞き入れてはもらえなかった。 ベッドルームは確かに言葉通り、きっちりと片づけられていて、しかしまだ新品の家具たちが、ホテルの一室のようによそよそしく映る。 和希が選んだラグもリネンも、ナイトランプもサイドテーブルも、見覚えがあってもそれだけだ。 結局、お祝いのひとつもさせてもらえず、気持ちは宙に浮いている。きっとそんな思いも、いくら言葉を尽くして訴えても伝わらない。 中嶋さんが先に寝入ってしまったことに気づき、起こさないよう静かに頭の向きを変え、寝顔を覗き込める位置に落ち着けた。 新しい部屋の匂いに慣れずに寝付けないのは、和希だけのようで、しばらく無言でその寝姿を眺めていた。 おそらく何時間見ていても飽きることはない。 凄みすら感じるほどの綺麗な顔立ち。肌は若く、モデルでも出来そうなくらい完璧で。さぞかし大学に入ったら話題になるだろう。欲目を除いても――確実に、間違いなく。 「中嶋さん…」 学園で出逢い、その中でいつまでもぬくぬくと過ごせるような気がしていた。タイムリミットなど、永遠に来ないかのように。 知らない人間に囲まれる中嶋さんを想うとき、そこには不安しかない。 「何が欲しいかも言ってくれない…」 「…それが一体どう繋がるんだ」 「えっ?」 途端にざあっと空気が変わった。眠っているはずの、閉じられていたはずの瞳が、薄く開いて和希を捉える。 「お前はそんな支離滅裂なキャラじゃないだろう?」 いつから目覚めていたのか、寝起きとは思えない、随分はっきりした声で、鋭いツッコミをくれる。 「別に…支離滅裂なんかじゃありませんよ、ちゃんと…」 「なら説明してみろ」 聞いてやるぞと居丈高に命令するのに、いつもよりずっと柔らかい感じがするのは、きっと眼鏡の有無の差だろう。 「ですから、お祝いのひとつくらいさせて下さいってことじゃないですか」 「必要ないものを断られた程度で、お前は落ち込むのか」 「………」 なんだ、ちゃんと気づいてた―― 「だって……なんだか、中嶋さんに…俺はもう要らないみたいに思えて」 「家中の物品を選んでおいて何を言う」 「ですけど…っ――気持ちの問題ですよ」 情けない…気弱な発言には、何の説得力もない。案の定中嶋さんは失笑を浮かべている。 「い、いいじゃないですか。何か贐(はなむけ)をと考えたって」 「…悪くはないが、お前の場合固執しすぎて逆に、祝いを押し付けて俺を枠の外へ追いやろうとしているようにも見える。文字通り餞別なら、別れのしるしだろう?」 「な…っ」 ――なんですかそれ! 「例えば、の話だ」 宥めるように中嶋さんの大きな手が、ぽふ、と和希の肩をはたく。 「お前は、黙って着替えだけ持って、身ひとつでここへ来ればいい」 「……それは、どういう…」 「お前だって初めからそのつもりだったんだろう」 「え?」 え?え?え? まるで理解が追いつかないでいる和希を置き去りにして中嶋さんは、 「――何処の世界に、自分が住むわけでもない部屋をコーディネートしたがる物好きがいる」 「………」 疑問の「え?」が、別の「え?」にがらりと色を変えた。 「そんなの…だって……いいんですか?俺が…」 ここに――一緒に?住んでも?本気で? 「だからそのつもりじゃないのかと訊いただろう?」 いよいよ可笑しくて堪らない様子で、眼の前のひとは穏やかに微笑う。 もちろん和希にそんなつもりはなかった――けれど、はい、と頷きたくなるのは自然な道理だった。 「あっ、それなら…」 「家賃を払わせろとでも言う気か?」 「それはもちろん、当然の義務ですから」 「忙しいお前のことだから、居住と言っても通いがいいとこだろう」 「………」 遠慮ではなく、中嶋さんは本気で和希から金品を受け取ることを頑なに拒む。 「それならせめて折半に」 「気が向いたらな」 少し眠そうな眼で答えが返って、それ以上ゴリ押しできなくなった。 「じゃあ…何か必要なものができたら、遠慮なく教えてくださいね?」 今にも沈没しそうな重い目蓋の相手に慌てて、早口でまくし立てれば、完全に眠りに落ちる寸前、何か呟き返すのが微かに聞こえてきた。 「――お前がいれば他にはなに…も?って、えぇ?」 寝言か本気か、空耳か確信的か、それは永遠の謎。 【アンケ御礼】2010 monjirou |