※女装風味、ご注意願います!
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「チップだ。取っておけ」 振り返れば、今しがた運んだテーブルの客が、畳んだ紙幣をこちらに差し出していた。 見慣れぬ奇妙な恰好…咥え煙草で、長い脚をこれ見よがしに組んだ男。 「――なんだ、足りないか」 揶揄するような声に、和希の白い頬が染まる。 そもそも珈琲一杯十銭のこのご時勢に、 拾圓券(現在の2万円近く)を平然と差し出す意味を考えれば、おそらく誰だって頭に血が昇る。 「お客さん、勘違いなさっているようですけど、ウチは置き屋じゃありませんから」 「似たようなものだろう」 薄暗い照明の店内、そのあちこちから女給たちの嬌声が上がっている。 それに混じって聞こえてくる、客の男たちの猥雑な笑い声。 この時代カフェーといえば、飲食を提供し、更につまりがそういうサービスを売る店が主だった。 また、フロアスタッフ――女給は基本無給で、客からのチップが収入源とも言えた。 だからといって、金さえ出せばなんでもするなどとは、客の思い上がりも甚だしい―― 「生憎とわたくしは男です、こんな恰好ですけど」 半ば自嘲気味にぶちまけた。これで大抵の男は怯む筈だ。 が、相手は動揺の欠片も見せず、 「――見ればわかる。第一そんな貧相な女に用はない」 「……」 座れ、と顎をしゃくって示されれば、客の命には抗えない。 隣の席におずおずと腰掛け、とりあえずビールを注ごうと手を伸ばした。 グラスにはまだ、半分程ビールが残っており、 飲み差しに注がれることを嫌う客も少なくないことを考慮して、暫しの間待ってみたが、 どうにもタイミングが計りづらい。 そればかりか、こんな店に居るのが不思議なほど、相手は全身にまるで隙がない。 見惚れるほどの美貌と、鋭い刃物のような眼差し。 一体何者なのだろう… 「どうだ」 「…えっ」 ビールを勧められている、と気づくまでに数秒かかった。 恐ろしく言葉数の少ない、我道を行くタイプの人間なのだろう。 「では今グラスを――」 アルコールは得手ではないが、同じような理由で断ることも出来ない。 グラスを取りに行こうと立ち上がりかけて、不意に腕を捕られた。 引かれるまま、すとんと座面に逆戻りした腰を、その腕に抱え込まれ身体が密着する。 近づく顔。煙草の匂い。指先で顎を掬い取られて、口唇が覆い被さってきた。 途端に、喉に流れ込んでくる苦味。ぬるいビール。 予測できずに激しく咳き込んで、涙目になる和希を全く意に介さない様子で、男は平然と訊ねた。 「お前、名は」 「す、鈴…」 「源氏名か。本名は」 「………和希」 「――どちらもいい名だ」 本気とも戯言とも取れる呟きと共に、再び口唇が重なってくる。 仕事だと己に言い聞かせてみても、それはどこか空々しい言い訳だった。 胸元にするりと先刻の拾圓券を忍び込ませ、やがて男は立ち上がった。 「俺は通りのジャズ喫茶に居る。気が向いたら来い。サービスしてやる」 椅子から立ち上がれもしないで、呆然と後姿を見送った。 耳に、低い声が残っていつまでも響いている。 氷のように冷たく、それでいて燃えるような強烈な眼差しが頭から離れない。 人がこれほどまでに単純に――堕ちるものだと知らなかった。 …道ならぬ、想いに。 Copyright(c)2008 monjirou |