夏休みに入って10日ほどが過ぎた。
学園は海の上の人工島という恵まれた立地条件で、おそらく都心よりはずっと涼しい。
加えて学園内は常に空調が効いていて、快適そのものだ。外界の猛暑など無縁に近い。
夏休みだろうがそれは同じで、学生会室もまた変わらず過ごしやすかった。


「暑くありませんか?」
「ん?」
「――ネクタイ。夏休みくらい締めなくてもいいんじゃないかと思うんですよね」


不意に疑問を口にする和希の首にだって同じものが下がっているように見えるのは眼の錯覚か。

3年受験組の英明は、夏休みに補講がある。
夏期休暇と言えど通常と何ら変わらず、夏服の半袖シャツにネクタイというスタイルで登校している。
それらに何ら深い理由があるわけでもない。ただ習慣、というだけだ。


「もしかして――演出かと思ってましたよ」


冗談めかして和希が笑う。


「演出?」
「――ええ。真面目でお堅い副会長って印象を演出してるのかと」
「…俺はそれほど暇そうに見えるのか」
「いえいえ、きっと無意識にですよ。その方がずっと教師受けがいいですからね。実際――1学期の中嶋さんはどの教師からも軒並み高評価でしたから。 無論今までもですけど。…俺はそれを見ながら、皆いいように騙されてるなぁと」
「………」


くすくすと思い出し笑いをする和希は、英明の眉間の深い皺に気づき、ふっと表情を改めた。


「――コーヒーでも淹れましょうか」


そそくさと立ち上がって、学生会室の奥へと向かう。


「アイス――でいいですよね?」


奥から声が掛かる。
自分でコーヒーひとつ淹れたことのなかった男が、随分成長したものだと半ば本気で感心する。
自分のオフィスに居れば、内線一本でコーヒーが届くような生活をしているわけだから無理もなく、
後輩のフリをするためとはいえ、コーヒーの淹れ方を真面目に伊藤に教わる辺りは、尊敬に値する。…もちろん嫌味抜きで。



英明は席を立って、和希の背中に近づいて行った。


「――伊藤がいなくて大丈夫なのか?」
「はい、練習しましたからね!味の方は…わかりませんが」
「頼りない話だな」


英明が横から眺めているせいか、和希はぎこちない手つきでドリッパーにお湯を落としていく。
アイスなので濃いめのドリップ。見ている限りでは特に問題なさそうだ。


「中嶋さん…」
「なんだ」
「そう見ていられると…」
「お前が緊張するようなタマとは思えないが?」
「中嶋さんに見ていられるとそれだけで心臓に悪いんですよ?心拍数が跳ね上がるんですからね」
「ふ…」


手も口も出さす静かに見守っている相手に、酷い言い草だ。


「そう言われるとご期待に応えたくなる――」
「え?ちょっ、危な…」


さすがに傍若無人を地で行く英明であっても、和希に火傷をさせるほど愚かではない。
背中から抱き込むようにして電気ケトルを安全な場所へと移動させ、強引な体勢に持ち込んでキスを奪った。


「…っ」


一瞬だったせいか、不意打ちだったせいか、和希は閉じることも出来ずにいた眼で、きっと睨みつけてきた。


「危ないって俺言いましたよね?」
「お前の身に傷ひとつつけた覚えはないが」
「そういうことではなくて!」


淹れたてのコーヒーを今にも英明にぶちまけそうな勢いで、和希は更に食って掛った。
さすがにこちらの分が悪いので、ここは常套手段に出るしかない。


「中嶋さん――っ…!」


卑怯なといくら罵られても構わない。そのときは、お前にキスしたくなって何が悪いと開き直るだけだ。

さっきよりもいくらか本気でキスを貪る。
じたばたと英明の腕の中でもがく和希は、先程理事長風を吹かせた男と同じ人間とは思えないほどで、


「………演出というならお前の方だな」
「――どういう意味…」


軽く息が上がって耳元が赤い。征服欲を煽る媚態も、上目遣いの眼差しも、計算でなければ大したものだ。


「お前に振り回されてばかりいる、という話だ」
「…誰がですか」
「さあな」
「そこで誤魔化される意味がよく…、あっ、もしかしてさっきの仕返しですね?」
「……早く冷やさないと、コーヒーがただの冷めたコーヒーになるぞ」
「あ!…ってそもそも邪魔をしてきたのは中嶋さんじゃないですか」


ぶつくさとぼやきつつも、せっせと氷の準備を始める。
その冷蔵庫自体も、先日新調したばかりだ。今まではホテルに設置してあるような小型の物しかなかったのを、 きちんと冷凍室が独立しているタイプの品をわざわざ和希が用意した。
まさかアイスコーヒーのためだけでもないだろうが、金持ちの考えることは謎でしかない。


「せっかくお前が買ったこれも、じきに不要になるな」
「え?あぁ…、このままここに置いておけば、次の執行部が使ってくれるでしょう」
「どうだろうな。あいつらが素直にここを使うとは思えないが」


おそらく次の学生会役員は、現会計部がそのままスライドすると思われる。
西園寺とその犬は、英明には到底理解できないような世界の住人だった。


「……そのときは処分するなり、必要なら誰かに譲ってもいいですし…」
「そんなものか」


含みのある英明の物言いに、和希が首を傾げた。


「何が…ですか?」
「いや、お前にとっては冷蔵庫も俺も同じようなものなんだろうと思っただけだ」
「は…話がよく…見えませんが…?」
「お前にいいようにあしらわれて挙句捨てられる、哀しき末路だな」
「それ本気で――言っているならさすがに怒りますよ、俺だって」


和希がまともに声を荒げる姿など今まで眼にしたことがない。それはそれで興味の湧くところだが、


「――どちらでもいい。お前が本気にしたいならそれでいいし、冗談だと思うならそれでいい」
「そういう…中嶋さんのそういうところ、俺には正直言って理解出来かねます」
「………」
「振り回されているのは俺の方ですよ…」


想定外だった。いつもの和希なら聞き流すレベルの軽口だったが完全に調子が狂った。
どうやら本気で怒らせたようだと呑気に構えている余裕はなさそうだ。


「――すみません、大人気ないことを言いました」
「……遠藤」
「中嶋さんは…そういう性格も込みで中嶋さんなんですから…」


先に謝られてしまうと立つ瀬がない。返す言葉もない。


「でも俺は中嶋さんを捨てたりしませんし…むしろ俺が捨てられる方ですよね、どう考えても。
いや、それ以前に捨てる捨てないって段階でもないんじゃないかなって。中嶋さんからしたら」
「…どういう意味だ」
「捨てるってことは、遊びであっても付き合ってるって前提が必要でしょう?俺は中嶋さんからそんな関係を匂わされたこともない…」


ふと気づけば、和希の巧妙な包囲網に囲まれていた。そんな感覚だ。
和希の方にそんな自覚があったかどうか定かではないものの。


「ですが俺は、…これ以上何かを望んだりはしませんから」
「………」


過剰な期待をするほうが愚かだと暗に皮肉られているような気がした。それはあながち間違いでもない。
…今までならばそうだった。


「さすがにお前は侮れない人間だな」
「…はい?」
「今更何をとお前は笑うのかもしれないが…、」


慎重に言葉を選ぶのに慣れていない。和希が何を望んでいるのかはわかる。
きょとんと丸くなったその眼を見ていれば、単純で容易いことのように思える。


「コーヒー、薄くなってしまいますから」


和希が、氷が涼しげな音を立てるグラスを、思い出したように眼の前に差し出した。


「ああ…」


受け取ってひと口。理事長手ずからのアイスコーヒーは苦味も酸味も申し分のない出来だった。


「…旨いな」
「ホントですか?よかった…練習した甲斐がありましたね」
「………」


言葉に詰まる英明を見越しての行動だとは、勘繰り過ぎだろうか。
呑み終えたグラスを流しに置き、シンクの縁に軽く体重を預けて改めて和希と向き合った。
平静を装いながらも戸惑いが透けて見える歳上の後輩を呼び寄せて、膝の間で挟み込むように立たせた。


「…遠藤」
「は…い」
「……やはり何もかも今更だな」


いざ何かを口にしようとすれば、照れ臭いわけでもないのにまず苦笑いが浮かんできてしまう。
およそ英明の柄ではない――ことを承知の上で、そっと和希の頬に手を伸ばして触れた。
その肩が小さく揺れる。


「そう硬くなるな」
「…中嶋さんに見られていると心臓に悪いって、さっきも言いましたよね…?」
「俺はお前を見ていると、」
「と?」
「…襲いたくなる」


ぶはっと堪え切れずに吹き出したのは和希で、


「――それじゃ、ただの変質者ですよ?」
「成程。変質者に注視されているから身の危険を感じて緊張するわけだ。正しい反応だな」
「え…それは…違うと思いますが…」
「ならば理由は何だ?」
「そんなの…俺が、……さんを好きだからに決まってる…」
「――何だ?よく聞こえなかった」
「…二度は言いません」


伏し目がちにそう言い切って、英明の両肩に手を載せる。そのまま無言で、そっと口唇を英明に押し当てた。


「俺は…多くを望みません。嫌味でも何でもなく、今のままで満足なんです。中嶋さんに無理矢理何かを言わせ
ようなんて――…」


思わない、と言うために動いた口元に今度は英明から近づいていく。
最後まで、言わせない。


「――っ…」


反射的に退こうとする和希の項を掌で押さえ込んで、口腔内を更に深く穿った。




蹂躙され息も絶え絶えになった和希の耳元に小さな声でそっと吹き込む。
「ズルい…」って呟きが聴こえたので、どうやら赤に染まったその耳にも英明の独白はちゃんと届いたらしい。
文句を言いたそうな複雑極まりない顔は見ないで済むように、何より、らしからぬ言動に一番困惑している自分自身を見咎められないように、 和希の肢体を抱き寄せる。


苦情その他には、演出も大事なんだろう?と応じるつもりだ。








−了− 








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