「――はい、…あぁ啓太、うん、どうした? …今?大丈夫、風呂に入ろうと思ってたとこ。いいよ平気。
 …え?数学の課題? ……あぁそうなんだ。うんわかった。あとでそっちに行――っ!?」
「伊藤。課題なら丹羽にでも教わって来い」
「ちょ――中…!」


人は、眼の前の会話に集中しているとき、斯くも無防備なのだと知った。
いきなり背後から携帯を取り上げられるまで、脱衣所に侵入してきた不審者の気配に、まるで気づかずにいた。


「――いきなり何す…っ」


ぶつりと通話を断たれた携帯は、ゴミのように無残にもその辺に放られる。


「何するんですかっ!勝手に」
「『何するんですか――』? 風呂に入るに決まっているだろう」
「…ここは俺の部屋ですよ?」
「時間が惜しい。早くしろ」
「人の話を聞っ――わ、ちょっと、中嶋さんっっ!」


文句など聞きもしないで、中嶋さんは勝手に他人の服を脱がしにかかる。テキパキと鮮やかな手つきで、順にシャツのボタンを外…って!


「ですからーーッ!」


不埒な手を振り払うついでに、どおんと胸板を押し返したが、如何せんびくともしなかった。


「妙なヤツだな。一緒に入るほうがエコだとでも言えば納得するのか?」
「そんなこと言う中嶋さん、逆に嫌ですよ…」


それよりあのー…、いつの間にか一緒に入ることが前提になってるんですが…?
いくら足掻いても体力を消耗するだけだと悟り、溜息と共に無駄な力を抜いた。
促されるまま両手をバンザイのポーズで、Tシャツを首から引き抜かれる。うぷ!っと顔が現れた瞬間、狙ったようにキスされた。


「――!」


なんだろう? その行為に違和感…というか何処かそぐわない印象を受けた。
けれど、何処がどうと明確に伝える自信がないので、黙っていることにした。


後はささやかな抵抗も虚しく、身ぐるみ剥がされ浴室に放り込まれた。それから一足遅れてその人もやってくる。
大浴場でなら当たり前のことと受け止められるのに、どうしてだかこう…見てはいけないもののような気がする、若い盛りの中嶋さんの肢体は、筋肉の張りも艶やかさもそうだけれど、一番他の人と違うのは、それが、ひどく猥褻だということで、つまり、


「――どうした」
「いえ…」


眼鏡もないから、細かい表情まではきっと見えない――と、わかっていても思わず眼を逸らしてしまう。
中嶋さんは、そんなあからさまな態度にさほど興味を示さず、スポンジにボディソープを押し出し、


「ほら」


こちらを向けと手を差し出した。


「え…」


当然戸惑う相手をやはり無視して、和希の腕を軽く掴むと、肩の上からわしわしと泡立て始める。


「――じ、自分で、できます。から…」


聞き入れてくれるようなキャラじゃない、のは知ってる。
そのまま無言で、全身隈なく足の裏に至るまで磨き上げられてしまったのだけれど、一切セクシャルな行為に及ぶことなく、 至って義務的に泡を流し終えると、浴槽に入れと指示した。
まるで、母親が子を先に洗って、その後自分をゆっくり洗うような――?


中嶋さんもそうして、改めてボディソープを乗せたスポンジを手に取った。


「…ヘンなの」


バスタブの縁に顎を乗っけて呟く。
いくら他意なくそつなく洗われたって、こっちは…とても平常心ではいられない。
スポンジを持つのと逆の、中嶋さんの手が、身体を支えるために素肌に触れるたび、俯き加減の眼差しが、常に肢体のどこかに注がれているのに気づくたび、 体温が上昇した。
恥ずかしさより、互いの温度差が切ない。今だって。
眼の前で中嶋さんが身体を洗っている。それだけなのに。
しなやかに動く筋肉や、肌を弾く水滴や、そんなものにいちいち眼を奪われて、息苦しくなって。


「…のぼせたのか?」
「――え…ッ? いえ、大丈…夫…です」
「そうか」


不意にこちらを向いたその人の視線に、正直に鼓動が跳ね上がった。赤い顔をしていたのがバレた?見惚れていたのに気づいた?
焦ったら最後、またヘンに話を大きくして遊ばれる――はず…なのに、中嶋さんは何も言わず、髪を洗い終わると、浴槽の和希の脇のスペースに無造作に肢体を沈めた。


「――」


やっぱりこの中嶋さん、ヘン…じゃないか?
独り用の狭いユニットバスだから、コーナーに小さく身を縮めても、向かい合った距離は近い。
そこで不意に、相手の存在を思い出したように、中嶋さんは腕を伸ばして和希の肩を引き寄せる。


「………」


感情の窺えない、ぞんざいなキスは、抱いていた感情を益々強くさせた。


「――なんだ、妙な顔をして」


それはこっちのセリフですよ…は封印し、


「…これもお仕置きの一環なんですか?」


問えば苦笑気味に、「お前がそう思うのならそうなんだろう」って。
誤魔化したのか、本気でそう思っているのか。


「だってさっきから何だか…」


煽られるのに放ったらかしで。


「俺に…何か言わせたいのかなって…」
「何をだ?」
「だ…からその…欲しい……とか、そういった類の」
「――ふん、お前の話は漠然としすぎていて、さっぱり分からない」


ちゃぷんと水音を立て、浴槽の中でまた更に距離を詰められた。
成程、何処にいるより退路のない場所だ。感心している場合じゃないが。


絶対全てを理解した上で、しれっと空惚けた、そのくせ見惚れるような整った顔が、じりじりと間合いを取って近づいてくる。
感情は別として、人間は迫られれば逃げたくなる生きもので、思わず身じろぎした途端、ずるっと浴槽の底で腰が滑った。


「――ぶぁッ!」


顔の半分が水没しかけたところを、親切な人の両腕に助けられる。


「す、すみませ…」
「欲しい、は助けて欲しいの意味か? それにしては少々わざとらしいな」
「違いますよ…」


予定通りなら普段通りなら、絶対に揶揄われる場面だった。
けれど窺い見た中嶋さんの表情は、失意というかがっかりというか――ってなんで? 何なんだ本気で。


「中嶋さ――わっ…!」


一際水音高く、波が立つほど激しい勢いで矢庭に強く両脇を持ち上げられた。
内腿で柳腰を固定すると、指先で、和希の額に張り付いた前髪を掻き上げる。
自然な仕種と、不遜な眼差しと、微笑んだ口唇。あ、今、心拍数が最高値かもしれない…


「…たまには優しくしてやろうかと思ったが…どうやらお前には必要ないようだな」
「え…?」
「そんなにお仕置きが欲しいなら、いくらでもしてやる」




ピンポイントで予定調和であったことを、喜ぶべきか呪うべきか。





【今月はお仕置き月間】
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