年末を前に、学園に清掃業者が入った。
冬休み中とは言え、どの学年も進学組は補講があるし、それなりに生徒は登校している。
それをいいことに、廊下で業者の仕事ぶりをさり気なくチェックしていると、


「和希ー何してるんだ?」


意外な…でもないのか?啓太が眼の前に駆けてきた。


「うん?俺はちょっと野暮用…啓太こそどうしたんだ?」
「あ〜う、うん。オレもちょっとヤボ用。それより和希、えぇと…」
「何だ?」
「その…えっと、冬休み、帰省とかしないのか?」


そんなにどもりながら訊くことか?ヘンな啓太。


「正月はさすがに帰るけど、後は仕事。長期休暇って結構貴重な時間だしな」
「そうなんだ…あんまりムリするなよ? あと、お年玉もヨロシクな!」
「あ、あぁ…」


深読みしすぎだったか。なんだいつもの調子だよな…


「あ、和希あそこ!」
「えッ?」


急に啓太が声を上げたので、つられてその指差す方向に眼を向けた途端、


「ゴメン!和希」


顔面目掛けて何かが霧状に降ってきた。
スプレーか何か…吹き付けられた…ようだが、急激な刺激に視界が消え、また、激しく咳き込んで息もロクに吸えない。
よろめいたところを、背後から誰かが受け止めてくれた。
しかし支えると言うよりかは、羽交い絞めにされているような。
ふたつの腕が上体を巻き込むように抱え込んで、否応なく広い胸板に背中が密着する。
啓太じゃない。もっと大柄の…よく知ってる匂いをまとった…


声を上げそうになったが、即座に口を塞がれた。
同時に目隠しされ、届けられる情報は音だけになる。
まだそこにいるらしい啓太が、耳元でゴメンと何度も訴えていた。
ホントに大丈夫なんですか?とも。
何がゴメンなんだ?大丈夫って…


誰に訊いてるんだ啓太。大丈夫なわけないだろ――






「…眼が覚めたか」


声が聞こえて、眼を開けようとしたが無駄だった。
布状の何かで、やはり目隠しをされたまま。
光の向きがわかるくらい緩いものなのに、手首までもが拘束されていて、外すことができない。
口も同様に、かろうじて抵抗を塞ぐ程度の猿ぐつわ。
何処か…柔らかなものの上に仰向けに寝転がっている。
とりあえず判るのはたったそれだけ。


「薬が効きすぎたか?」


どう聴いてもそれは、聞き覚えがあってありすぎる声なのに、問えないもどかしさ。


「人体に悪影響はないから安心しろ。防犯用のカプサイシンスプレーだ」


心なしかいつもより優しげに聴こえるのは、こんな状況だからか。
もしかすると、一瞬意識を失っていたのかもしれない。
記憶がところどころ途切れている。
防犯スプレーなら、そこまでの威力はないはずだが――呼吸困難で一時的に酸欠になったか…


それで猿ぐつわもこんなに緩いのか?
気を遣う点が大いにずれている気もするが、そもそもどうしてこんな事態に陥っているんだろう。
啓太まで巻き込んで…全く。
例えどんなに謝られたとしたって、そう簡単に絆されるつもりはない。


「不服そうだが、目下お前は人質だからな。もうしばらく大人しくしていろ」


つまり誘拐…?――むしろ略取?
身代金でも要求するつもりなのかと、視えない相手を睨みつけてやったが、


『――あぁそうだ。鈴菱理事長を監禁した。無事に帰して欲しければ、そうだな…50億用意しろ』


――何だって?


『但し米ドルで』


…いくら円高だってふざけすぎじゃないかそれ?
見当違いの苛立ちに、しばし己を見失ったが、電話…だろう、会話の相手は誰…だ?


『別に無理にとは言わない。コイツの価値は、俺のほうがよく理解っているからな』
「………」


自演という可能性もゼロではないか…、そう勘繰った矢先、
ゆっくりとした動作で、そこにいる相手が近づいてくる。
強い煙草の匂い。誰だか分かっているはずなのに、視えない不安が恐怖を呼び起こし、反射的に身を竦めた。
同時に、耳元に押し当てられた携帯電話。


『…から、和希様のことはお任せいたします。くれぐれもお怪我のないよう』


電話の相手は、この人と同じくらいに聞きなれた声。
思わず縛めを忘れて叫びそうになった。


『それでは、年明け4日までよろしくお願い致します』


だが続いたひと言で、雲行きは俄に怪しくなる。


「聴こえたか」そう言って伸ばされた手が、頭の後ろの結び目を解く。
ようやく口元だけが自由になって、最初に発したのは、当然のように非難の言葉だった。


「――何々ですか一体!」
「…お前に休暇をやろうという気遣いだろう」
「は?」


あまりにもあっさりとした返答に、憤りも失せそうになる。


「どうせ休みも働く気だったんだろう。オーバーワークを心配する奴等の心情も察してやったらどうだ」
「…だったら俺に直接言えば済むことで」


「お前が素直に聞き入れるならそうしただろうな」
「………」


僅かながら見えてくるカラクリ。この人の言うことなら聴くだろうって?
それはあんまり無謀…を通り越して暴挙だぞ。


「だからって、こんな手の込んだイタズラすることないでしょう?結構トラウマなんですからね」
「さすがに誘拐経験アリ、か?」
「未遂ですけどね、一度や二度じゃありませんし」
「伊達に鈴菱の御曹司なだけあると言うことだな」


妙な感心を口にして、犯人は横たわる身体の上に伸し掛かってくる。


「…悪かったな」


謝罪というよりは慰めに近いニュアンスだろうか、今のは。
普段無表情な人でも、顔が視えないとやっぱり想像もできない。


「――ん…?んっ…」


けれど唐突なキスが、どんな気配より濃厚に、その人の存在感を示した。
いつもより格段に甘やかに、猿ぐつわのせいで濡れてしまった口の両端までも舐め取られ、
間近で音だけが生々しく響くのに、身体は動かない。狂おしいってきっとこういうことだ。


「外し――て欲し…」


息も絶え絶えの懇願に、悪役は押し殺した笑みを漏らし、両手首を拘束状態のまま胸の前に持ち上げた。
当然期待して然るべきの場面で、指先がぬるりと生暖かい場所に導かれる。


「……ッあ」


もちろん気持ちが悪いがそれ以上に、背中を這い上がってくるような――


「誘拐ごっこはもう終わりだ」
「だったら…ッ」
「身代金は取り損ねたが、代わりにお前を好きにしていいとのお達しだからな」


その含みのある言葉の意味なんて、考えなくてもわかる。


「あいにく俺には、そんな趣味はありません…!」
「…そうか」


大きな掌が、冷やりと頬を撫でる。


「視えなくても分かるだろう、俺が誰か」
「そ…」


そんなの理由にならないって心からの叫びは声にならず、ひゅっと浅い呼吸で息を飲んだ。
喉元に喰らいつくようなキスが身体全部を震わせ、反射的に逃れようとするも、
手の自由が利かないことで、ただ虚しく上体が弓なりに反っただけだった。


「いつもより…敏感だな。自分で気づかないか?」


わざと一語一語区切って、言い聞かせるように囁かれる。どうだ、と。


「――や…」


気づかないわけない。でも認めたくはない。
気が変になりそうなほどの熱で、頭が蕩けそうだなんて。
だから必死で、繋がれた手で相手の胸板を押し返した。
こんな子どもっぽい態度が恥ずかしいのは分かっていても、どうしても駄目だった。


「お願…っ」


誘拐犯は、暴れる相手の肢体を強い力で抱きすくめ、再び、今度は柔らかなキスで半端な抵抗を削ぐ。
そうしておいて、目隠しの布地を下から捲るように指で押し上げた。
どうした、とでも問うような眼差しが、指数本分の距離から覗き込んでくる。
急な光は眩しくて、どんな場面でも麗しい男の顔は憎たらしくて、なのにどうしてか急に、泣きたくなった。
怖がってたなんて思われたくないから、必死に顔を背けようとしたけれど、


「――被害者が、誘拐犯に対して特別な感情を抱くようになる事例を知っているか」
「……ス、ストックホルム症候群…?」


長期に渡る拘束等で、被害者が心身ともに極限状態にあるとき、
恐怖心から加害者に信頼や愛情を寄せるようになったりする…一種の自己マインドコントロールだが、
つり橋理論と似ている気がしないでもない。


で、それがどうしたというのだろう。
正解かどうかも教えないで、ただじっとこちらを凝視している、企み満載のふたつの光。


振り返ればいつも、この言葉少ない策士の心中を推し量っては悩んでいた。
いつだって試されているようだった。


謎かけなんて、結局相手に伝わらなければ意味がないのに。
第一中嶋さんのことを特別に想うようになるかなんて、そんなの、もっと意味のない問い。


「じゃあもし…逆、ならどうですか…?」
「逆?」
「俺が貴方を誘拐するとしたら」
「返り討ちにする」
「………」


思い込みでも勘違いでもいいから好きになって欲しいって言わせもしない。
じゃあどうしてそんな話題を出したんだって文句のひとつも言ってやりたい。


「…お前は時々――賢いのか馬鹿なのか分からなくなるな」
「どうせ、学園内で易々と拉致されるくらいですからねッ」
「相手が伊藤では油断もするだろう」
「………」


貶めたりフォローしたり、今日は珍しいなって思っていれば、


「俺だと当然気づいていたんだろうしな」


自身あり気な様子の中に、何処か得意そうな…この人でもこんな顔するんだなって意外な発見をした。


「そうですねぇ、タバコ臭いからワリとすぐ…」


強気に返せば、思い切り分かりやすくふんと鼻白む。
コレくらい意趣返ししたって罰は当たらない。あれだけの思いをさせられたんだから。


「所詮――その程度か、俺の存在は」
「え、ちょ…っ」
「これは本気で調教が必要なようだ。休みの間、みっちりと仕込んでやるから楽しみにしていろ」
「――ちょ、結び直すのなし!なしって…」


言ってるのに…再び目隠しが、視界を覆う。
ふと過ぎる不安。
もしかして、年が明けてもずっとこの状態…?




まさか。









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