春は物憂い季節だ。 卒業生を送り出し、あと10日もすれば、新入生が今年も賑やかにやって来る。 華やかな反面、どこか切ない乾いた匂いのする季節。 「…あの方が卒業してしまわれたからでは?」 「うん――それは否定しない。でも毎年思うよ、彼らにとってはこの学園は単なる通過点でしかないんだなと」 「和希様…」 秘書が怪訝な声を上げたので、すぐに笑って取り繕った。 「なんでもない。今年の一年はどんなだろう。楽しみだ」 「…はい」 さすがに秘書は単純に誤魔化されてもくれず、しんみりしてしまった理事長室に、急に携帯の着信メロディが鳴り響く。 「あ、メールだ…」 開封し、思わず吹き出した。 件名はなく、本文にはたったひと言「暇だ」。 暇か?って問うならまだわかるのに…なんてあの人らしい。 「――石塚、これからの予定は?」 秘書は手帳も開かずに、残りの予定をつらつらと流れるように述べていく。 「…帰れそうにないな、やっぱり」 派手な溜息に、秘書は苦笑を隠せない。 「今より1時間で、研究所からの報告書、並びにデータその他に眼を通して頂ければ、あとは私達が」 「いいのか?」 「はい。どうぞお気をつけていってらっしゃいませ」 沈んだ上司を、たった1本のメールで(しかも2文字)浮上させられる相手には敵うまい。 弾んだ声で電話をかけ始めた和希を前に、残業を余儀なくされた石塚は複雑な笑みを浮かべた。 「――そうだ中嶋さん。入学式には、ご家族の方は?」 「…何故そんなことを訊く?」 秘書の笑みに送り出され、都内某所にて久方振りに夕飯を、暇人…もとい中嶋さんと一緒に。 「誰もいらっしゃらないなら、俺も出席しようかなって」 「何のために」 「ん…保護者代理?」 「新入生に間違われるのがオチだろうな」 「もちろん、ちゃんとスーツで行きますよ」 「余計だ」 ワインが入ったせいで、多少…浮かれていた。 端から本気、ではなかったものの、中嶋家のことだからもしかしたらと。そう思ったら口が滑って。 でも中嶋さん自身も本気にしていないからか、来るなとまでは言わない。 「こっそり見てるだけですから…ダメですか?」 「――お前、仕事は」 「あ!あとで確認してみます…」 1時間くらいなら石塚に無理を言って…渋い顔をされるかも…第一会議が入っていたら無理だし…ああ、社会人って面倒臭い… 「――そろそろ出るか」 「あ、はい」 店を出たところで中嶋さんは振り返り、いつもの皮肉な笑みも見せずに訊いた。 「今日は泊まっていけるのか」 「え?えぇ…中嶋さんさえよろしければ」 そんなことまず口にするような人じゃないのに。 泊まっていって当然。むしろイヤだって言っても聞く耳持たないような人だったのに。変なの… その疑問は、中嶋さんの部屋に着いて何となく解けた。 寝室には、届いたばかりと思しきスーツの箱が無造作に放り出されている。 靴もシャツもネクタイも、綺麗にパッケージされたまま。 「あ、こういうの贈るって手もありましたね。入学祝。何が欲しいか訊いても、ちっとも教えてくれな――…」 あとから部屋に入ってきた中嶋さんの気配が近づいてきたかと思うと、急に後ろから羽交い絞めされる。 「――中嶋さん?」 「俺はもう、お前の生徒じゃない」 「えぇ…そうですよね」 「同時に後輩でもない」 和希の後ろ髪に頬を埋めるように押し付けて、くぐもった声が続く。 「だから…」 「はい」 「お前は大人だ」 え?と訊き返しそうになるのをすんでのところで堪えた。 言葉が足りなくていつも人を惑わす中嶋さんだけれど、今は、言うべき事柄を前に、中嶋さん自身が混乱して戸惑って。 そんな風な。 「以前より…お前が遠い気がする」 「――」 そしてようやく吐き出された言葉に、今度はこちらが何も言えなくなる。 「確かに、前みたいにすぐには会えなくなりましたけど、でも」 「そういうことじゃない」 即座に否定され、視えない相手の心を必死で推し量った。 「お前が…」 そう言ったきり中嶋さんは口籠り、珍しく饒舌過ぎたことを悔いているようだった。 「中嶋さん…後輩じゃない俺は、もう…いらない?」 「――お前こそ、子どものお守りなどしている場合じゃないだろう」 「そんなわけ…」 返ってきた言葉を否定しながらも、何故か微笑みが浮かんできてしまう。 「ねぇ中嶋さん。俺は不安で仕方ありませんよ。大学に入ればいろんな誘いがあるだろうし、 美人の教授に言い寄られるかもしれないし、俺より若い子だってもちろんたくさんいて。 それでも俺がいいって言ってくれるのかなって」 「それを杞憂と言うんじゃないのか」 「だったら俺も、そっくりその言葉、お返ししますよ」 前に回された中嶋さんの腕に手を添えて、強引に振り返った。 虚を衝かれた顔をして、愛しい人はそこに居る。 「貴方が追いついてくれるのを俺は待ってます。それじゃダメですか」 「…お前はやはりお前だな」 実際に中嶋さんが、胸に何を抱えていたのかはわからない。 先輩と後輩ではなくなって、大学生と社会人に立場が変わって、距離が開いた。 それを不安に思うのは何もひとりだけじゃない――… 「ああ、すぐに追いつく。待っていろ」 自信を湛えたいつものあの強烈な眼差しは、和希を正面に見据え言い放った。 「楽しみにしていま…」 答え終わらぬうちに、緩く甘く口唇が降ってくる。 蕩けそうな口づけ。大好きな中嶋さんの… 「そうは言っても、いつでもキスできる距離って大事ですよね…」 「なんだそれは、プロポーズか?」 「え…ッ? ど、どこをどう解釈したらそん…」 「そのままじゃないか?」 別の意味で嬉しそうな中嶋さんは、腰に腕を回して身体ごとゆったりと抱きかかえ直す。 「お前がどうしてもと言うなら聞いてやってもいいぞ?」 「え、う、あ――…ちょっと待ってくだ…」 そう言えば、物憂い春は何処へ消えたんだっけ。 石塚に報告したらどんな顔をされるだろうかと、頭はすでにそこから一歩先へ。 【春 爛漫】 Copyright(c) monjirou +Nakakazu lovelove promotion committee+ |