彼といる時間の中で
「・・・・・なんだ?」
見知らぬ番号が浮かぶディスプレイを見つめ、中嶋は一瞬、不機嫌そうな表情を浮かべてから携帯を手に取った。
ベルリバティスクールの最上級生である中嶋英明。 彼を知らぬ者など、この学園に存在しないと言っても過言ではない。
11月に選挙を行い、後輩に学生会副会長の座を譲ったものの、いまだに学園の権力者である彼の携帯には色々な学生から電話が掛かってくる。 それは大抵、現副会長では処理しきれないような面倒事が起きた時だ。
まだ卒業したわけではないのだから、と仕方なく手を出してはいるものの、正直な所を言えばこんな年の瀬にまで面倒事に巻き込まれたくは無い。 そんな風に思った中嶋だったが、いつまで経っても着信音が鳴りやむ様子は見られず、諦めたようにため息をついて通話ボタンを押した。
「もしもし?」 『良かった、連絡取れて・・・中嶋英明さん、ですよね?』 「そうだが、誰だ?」 『すいません、申し遅れました。和希様の秘書を務めております、石塚と申します』 「・・・・アイツの秘書が何の用だ」
さっきまでとはまた違う険しい表情を浮かべながら、先を促す中嶋の声は少し硬い。
それもそうだろう。 電話の主が秘書を務める相手は、ベルリバティスクールの理事長である鈴菱和希。 理事長でありながら1年の遠藤和希として学園に通う、中嶋の恋人でもある人物だ。
学園の仕事はもちろん、鈴菱グループ本社の仕事も抱える和希の仕事量は半端じゃなく多い。 にもかかわらず、学生を止めようとしない彼に中嶋は苛立ってばかりいた。 もっと自分の身体の事を考えろ。 何度、そう怒鳴りつけそうになった事か。
かと言って、自分の在学中に和希が学園を止めようものなら、真っ先に怒鳴りつけるのもまた中嶋なのだろう。 まだ18歳の少年の心は、色々と複雑なようだ。
とにかく、それほど忙しい和希の秘書からの電話とあって、中嶋は彼の身に何かあったのではないかと少しばかり表情を強張らせた。 秘書に自分たちの関係を知られていることは承知していたものの、滅多に中嶋自身が彼らと話す事はない。 まして、石塚からの連絡など、初めてのことだ。
『申し訳ないのですが、ちょっと困ったことになりまして。お手数ですが、サーバー棟まで来て頂けませんか?』
先ほどから、中嶋の不安を煽るような言葉ばかり口にする石塚の決定打が、中嶋の耳に届く。
「困ったこと、だと?」 『はい。和希様が・・・ちょっと』 「思わせぶりな事ばかり言わないで要点だけを言え!」
それでも鈴菱の秘書か、と吐き捨てるように言えば。 石塚はほんの少し、中嶋にはそれと分からないように笑いを忍ばせる。
『申し訳ありません。電話ではお話出来ませんので出来るだけ早くサーバー棟までお願いします』 「だから・・・っ、おい!?石塚!?・・・・・ちっ、電話を切りやがって・・・・」
幾ら石塚のほうが年上であろうとも、教師を手玉に取る中嶋にとって大した相手じゃない。 そう、本人は思っていたのだが、そこはやはり天下の鈴菱グループ上層部の秘書を務める人物。 一筋縄ではいかなかったようだ。
「仕方がない・・・・癪だがサーバー棟まで行くか・・・・」
石塚の思い通りに動くのが心底腹立たしいとでも言うように、眉をひそめながら舌打ちをした中嶋は、その表情とは裏腹にかなりの急ぎ足で寮を後にした。
「これでろくでも無い理由だったら、アイツにお仕置きだな・・・」
誰かが近くに居たなら、間違いなく怯えて逃げ出すだろうオーラを背負いながら中嶋はサーバー棟へ入って行く。 恐らく、石塚か和希が解除したのだろう。 普段は閉ざされたドアも、難なく中嶋の手によって開けられる。 もちろん、閉まった後はロックが自動的に掛かる音も聞こえていた。
そのぐらい閉ざされた静かな空間に響くのは、中嶋の靴音だけ。 それがピタっと消えたのは、理事長室というプレートを見つけて立ち止まったからだろう。
解除されたロックが勝手に掛かって行くのは、そういう設定にしてあるから。 となれば、此処まで辿り着いているのも中の2人には分かっているはず。
ならば、余計な労力など使う必要はない。 そんな風に考えて、ノックもせずドアを開けた途端、中嶋の目に入って来たのは瞳を潤ませて涙を零す和希の姿。 少し上気して紅く染まった頬に目を奪われた瞬間、和希のシャツに手を掛けた石塚が目に映る。
「・・・・・貴様、何をしている・・・?」
中嶋の口から零れ出た低い声。 それが耳に届いたのか、顔を上げた和希の瞳からまた頬を伝って雫が落ちた。
「中嶋、さ・・・」 「・・・・・もう一度だけ聞いてやる・・・何をしている、石塚・・・っ?」
シャツの襟元に指を掛け、自分の前へ石塚を無理やり引き寄せた中嶋は、黙ったまま彼を睨みつけ手を振り上げる。
殴られる―――・・・そう、和希が思った瞬間、その拳を手のひらで受け止めて石塚は笑った。
「問答無用で殴りつけるのは、どうかと思いますが」
痛いほど静まり返った部屋。 その空気を壊すように、石塚のくすくす笑う音と楽しげな声が微かに響く。
「中嶋さん?甘く見て頂いては困ります。私が何故、第一秘書を務めているか分かりますか?」 「・・・・・護身術にも長けているから・・・か」 「その通りです」 「ちっ」
鋭い舌打ちと共に、受け止められた拳を腹立たしげに下ろした中嶋は石塚を睨みつけた。 その厳しい視線を物ともせず、石塚は少し逡巡した後に首を傾げる。
「・・・・・・・・貴方が殴りつけてくるとは思いませんでした」 「何故だ」 「貴方が徹底して足しか使わない事は和希様から聞いてましたから」 「・・・・惚れた奴を護れない拳など、持った覚えは無い」
そう言って再び睨みつけた中嶋とは裏腹に、石塚は先ほど以上の笑みを浮かべる。
それはもう、本当に楽しげなもので。 今にも声を出して笑い始めるのでは、とも見えた。 何にせよ、そんな様は中嶋の怒りを煽るものでしかなかったけれど。
「・・・・・・・この年の瀬に理由も言わず呼び出したかと思えば、人の恋人に手を出して。それなりの覚悟は出来ているということか?」 「何のことだか分かりかねますね」 「っ、石塚!」 「貴方が口にしたことは、何ひとつ正解がない。私に何の覚悟が必要だと?」
口の端を上げて笑う様子は、常ならば中嶋が良く浮かべる表情。 しかし今は、まるで石塚にそれを譲ったかのようだ。
目の前の男が浮かべるのは、確かに笑みなのに。 隠し切れない鋭い視線が、わずかな冷たさを滲ませている。 それは、まるで学園での中嶋を見るようで、和希はぼんやりと呟いた。
「い、し・・・づか・・・?」 「あぁ、申し訳ありません、和希様。中嶋さんに構っている場合ではなかったのに」 「っ、待て!石塚!さっきから一体何なんだ・・・っ」 「・・・・・・・・和希様から聞いていたイメージと本当に違いますね、貴方は」
ため息をつきながら和希の元へ向かおうとする石塚を、中嶋は肩に手を掛けることで阻止する。
「どういう意味だ?」 「冷静沈着、とは言ってもやはり貴方はまだ18歳の子ども、ってことですよ」 「子どもだと・・・っ!?」 「ほら、すぐ噛みつく」 「・・・・・・・・っ」
此処に居るのは、本当に中嶋英明なのだろうか。 偽者じゃなくて? そんな風に思ってしまう和希を責められる者なんていないに違いない。
あの天敵とも言える七条とやりあう時ですら、もう少し冷静なのに。 今の中嶋は、完全に石塚にやり込められている。
「こんな中嶋さんが、珍しいようですね」
戸惑ったような和希の様子に気が付いたのか、そんな風に石塚が声を掛ける。 それに頷いた拍子に、和希の瞳からまた涙が零れ落ち、中嶋の声の険しさが増した。
「お遊びは終わりだ。何で和希が泣いているのか・・・理由を聞かせて貰おう」 「嫌です、と言っても・・・・」 「聞いてやらん」 「・・・・ですよね。まぁ、こちらからお呼びしたわけですし、貴方の人となりも多少分かったから良いでしょう」 「・・・・・・・・・いいから早く話せっ」 「本当に気の短い方ですね。でもその前に」
そう言いながら、またも和希の方に腕を伸ばす石塚の手を、中嶋が叩き落す。
「さっきから本当に・・・邪魔をしないで頂けませんか?」 「理由も話さない。和希は泣いている。そんな状態でコイツに触ることを俺が許すと思うのか?」 「・・・・・あぁ、殴りかかってきた理由はそれですか」 「なに?」 「私が、和希様を襲ったとでも?」 「違うと言うなら、早く理由を話せ」
苛立たしげに石塚を睨みつける中嶋の姿に、和希は慌てて口を開こうとする。 しかし、それを制して石塚はほんの少し硬い声を出した。
「貴方だ、と言ったら?」 「何がだ?」 「和希様が泣いている原因が、貴方だって言ったら、どうします?」
和希が泣いているのは中嶋のせいだと言う石塚の言葉をどう捉えたのか。 中嶋は少しの間、逡巡したあと余裕を取り戻したかのように口の端を上げて微かに笑った。
「俺のせい?ふん、そんなことあるはずがない。俺がコイツを泣かせる事があるとすれば、ベッドの中ぐらいだな」 「随分な自信ですね」 「自信じゃない。俺は知っているだけだ・・・和希が俺を、どれだけ好きなのかをな」 「・・・・自意識過剰な男は嫌われますよ」 「実体験か?色男」 「さあ?過剰なほどの自意識なんて持ち合わせていないので分かりませんね」
相変わらず、引っ掛かるような物言いに少し苛立った中嶋は石塚の胸元につかみ掛かり、目の前に無理やり引き寄せた。
「――― 石塚、俺は気が短い。和希から聞いていたと言うなら分かるだろう?」 「まぁ、貴方の気の短さは、予想以上だというのが良く分かりました」 「なら、さっさと話せ。俺はまだ犯罪者になる気はない」
言外にいい加減にしなければ拳に訴えるという事を滲ませ、中嶋は石塚から手を放す。
「散々邪魔をしているのは貴方なんですけれどね」 「どういう事だ」 「和希様に触る許可を頂けませんか?」 「俺が出すとでも?」 「・・・・・分かりました。では、体温計を抜いて貰えますか?」 「―――― は?」 「体温計です。和希様に熱を測って頂いているので」 「ね、つ・・・?」
目が点、というのはこういう状態を言うのだろうか。 呆然とした中嶋の姿なんて、ついぞお目に掛かったことがない。
きっと貴重なんだろうな。 ぼんやりとしたまま そんな事を思う和希に、中嶋が石塚から視線を移す。
「熱、が・・・あるのか?」
扁桃腺が腫れているのか、喉が痛くて出ない声の代わりに和希は頷く。 その途端、また紅く染まった目元から涙が零れ落ち、中嶋はほんの少し口を歪めた。
「石塚・・・何で泣いているんだ、和希は」 「・・・・・体質なのか、39度近くになると涙腺が緩むようで」 「39度で?」 「はい。和希様は男性にしては、平熱の低い方なので、8度5分まで上がると熱で身体中が痛むようです」
石塚の言葉に、和希の傍に近寄った中嶋は額を覆う前髪をかき上げ、コツンと自分の額をあてる。 触れる額の熱さと、普段はサラリとした髪が熱を孕んだ汗で少し湿った様子に眉をしかめた。
一体、どれだけ熱が高いのだろう。 涙腺が緩むのも解るような気がするほど、火照った身体。 医者の家系だからというだけでなく、一般的にも分かるほどの体調の悪そうな様子に、中嶋は自分の頭にいかに血が上っていたかを思い知らされた。
「和希。体温計、抜くぞ」 「ん・・・・」
体温が低い自分の手では、今の和希には辛いかもしれない。 そう思って声を掛けたが、それで心構えが出来ても実際触れれば冷たさに身を強張らせるもの。 少しだけ身を竦める和希を宥めるように、頬に口唇を落として中嶋は体温計を引き抜いた。
「どうです?」 「・・・・・何でもっと早くに休ませてやらない」 「本人が年内にある程度仕事を終わらせてしまいたいと」 「それで41度も出していたら、意味がない」 「41度!?」
こちらも冷静が売りのはずの石塚が、思わず声を荒らげるほどの体温。 和希本人も驚いたのか、涙を零しながら瞳を瞬かせて中嶋を見上げた。
「馬鹿か、お前は」 「だ、て・・・・」 「無理して喋らなくていい。口を開けろ」 「ん」 「大分腫れているな。石塚、咳は?」 「してらっしゃいません。喉の痛みと熱、それと頭痛があるようで」 「これだけ熱が出ていて、それで済んでいるのなら御の字だな」
ため息をつきながら和希のシャツのボタンをはめた中嶋は、眉を顰めながら石塚に視線を向けた。
「で?連れて帰っていいのか?」 「はい。3日までの休みは確保しますので。その後は体調次第ということで」 「鬼秘書だな」 「お休み頂きたいのは山々ですが」 「そ、れま・・・・」 「和希。喋るな、悪化する」 「うー・・・・」 「早く治したいだろう?」
そう言いながら和希にコートを着せると、中嶋はそのまま身体を横のまま抱き上げる。 さすがに文句を言う気力もないらしく、和希は大人しく腕の中に納まった。
「石塚、何かあったら俺の携帯に。和希はしばらく応対は無理だ」 「連絡しなくて済むようにしますよ」 「ふん、天下の鈴菱の秘書なんだから、それぐらいは求めてさせて貰おう」
軽やかなキータッチで外までの最短距離のロック解除プログラムを作動させた石塚は、笑いながら頷く。 それを目の端に捉え、中嶋は和希を抱えて理事長室を後にした。
「まったく、お前は・・・・どうしてこうなるまで無理をするんだ」
和希を自室のベッドに下ろしてエアコンをつけた中嶋は、勝手知ったる人の部屋とばかりにクローゼットを漁る。 パジャマに着替えさせ、布団の中に押し込んで、ちょっと部屋を出たと思ったら戻ってきた手にあるのはアイスノンとポカリ。 ここまで中嶋が面倒を見る人間って、他にいるだろうか。 そんな事を思いながら和希は中嶋が差し出した錠剤を眺めて、首を横に振る。
「和希?」 「・・・・・や」 「や、って・・・飲みたくないとでも?」 「ん」
今度は頷いた和希を見て、中嶋は眉を顰める。 どう考えても、飲まないで苦しむのは和希だ。 今だって目元に溢れそうになるほど涙が溜まっているくせに。 涙腺が緩むほどの熱を下げるには、解熱剤が一番手っ取り早い。 大人なんだから、それぐらい分かるだろうに。
「飲まなきゃ自分が苦しいだけだぞ?」 「・・・・・や」 「和希」 「や」
全てひと言だが、拗ねた様子をきっちり伝えてくる和希は、中嶋の目から逃れるようにそっぽを向く。 とうに成人しているくせに、これではただの子どもではないか。 しかし、そんな様子が妙に可愛く思えて、中嶋は微かに笑った。
「飲まなければ治るのが遅くなるだろう?」 「や」 「大体人が布団を掛けてやったのに、はね除けるな」 「アツ、い」 「・・・・・和希」 「や」
いつになく我儘なのは、風邪のせいなのか。 常から中嶋の前でだけは甘えて来る恋人ではあったが、甘えっぷりが増している。 思わず聞いてやりたくなる言動だが、熱が下がらないまま年越しというのもどうか。 折角3日までは休みだと聞いたのだから、和希とゆっくり正月を過ごしたい。 そんな事を考えながら中嶋は、ベッドに腰を下ろして和希を抱き起こした。
途端、身を竦ませるのは熱が上がりすぎて皮膚が敏感になっているせいだろう。 幾ら可愛い我儘でも、発熱で身体に掛かる負担を考えると大人しく聞いているわけにはいかない。
「解熱剤を飲まないというのなら、運動で汗をかいて熱を下げるか?」 「?」 「まぁ、今のままじゃ感じすぎて苦しいかもしれないが」 「・・・・・・っ」
鎖骨を緩く吸い上げながらそんな風に言った中嶋の言葉をようやく理解した和希は、一瞬息をつめたあと中嶋の頭を叩く。 触っただけでピリピリするのに、愛撫となったらどうなることか。 言外にそれを伝えた中嶋は、動きを止めた和希の手に錠剤を落とした。
「飲むな?」 「・・・・・・・・ん」 「いい子だ」
不満げな表情を隠しもしないで渋々薬を飲んだ和希は、そのままベッドに身体を倒す。 笑いながらそれを見つめ、中嶋は布団を掛けて和希の頭を撫でた。
「今日は大人しく1日寝てろ」 「・・・・・・や」 「ずっと居てやるから」 「・・・・・・・・・・」 「まだ不満か?」 「・・・・・・・・・・・・・んん」
ほんの少し首を横に振った和希に向ける中嶋の視線は、常にないほど穏やかで柔らかい。
きっと、それは和希にしか向けられない、特別な感情。 共に居る、この時間にしか見せない、特別な想い。
それを感じられるのなら、風邪をひくのも悪くない。
微かに笑いながらそんな事を思った和希は、ゆっくり瞳を閉じた。
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